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テレビのニュースなどを見ていると、専門家と呼ばれている人たちが、対立した意見を主張しながら議論をしています。
また、SNSを見ても、ある人の発言に対して反対する人たちが大げさに反論しているのを目にします。
1つの問いに対して、どうして全く違う答えを持つ人たちがいるのでしょうか?
専門家と呼ばれる人たちでさえ意見が分かれている時に、素人の私たちは何が答えか全く分かりません。
では、自分の専門分野ならどうでしょうか?
例えばヨガでも、先生によってアライメントが違うことがあります。どれが正解でどれが不正解?悩むことありますよね。
インド哲学には懐疑論(もしくは不可知論)という考えがあり、あえて「分からない」という結論を認めます。
“腑に落とさないことに正解がある?”懐疑論の考え方をご紹介します。
あえて腑に落とさない懐疑論の考え方
世の中で私たちが「これは正しい」と言い切れるものは何でしょうか?
『ヨガ・スートラ』では、正しい認識には3種類あると説いています。
直接の知覚、推理、信頼できる人の言葉が正しい認識の源泉。(ヨガ・スートラ1章7節)
- 直接の知覚:5感を使って直接的に知った情報。「目の前の薔薇を見たから、ここに薔薇がある」など。
- 推理:1,000円持っていて昨日500円使ったから、財布には500円残っているはず。
- 信頼できる人の言葉:ヴェーダなどの教典に書かれている言葉。
この3つは、ヨガ哲学の土台になっている古代の哲学学派サーンキャ哲学の教典にも書かれていて、インド哲学では広く取り入れられている定義です。
正しいと思うことにも疑いを持つサンジャヤの懐疑論
しかし、仏教が栄えた時代の思想家であるサンジャヤ・ベーラッティプッタは、定説とされていた「正しい認識」に対しても疑いを抱きます。
例えば1番の「直接の知覚」は、私が実際に目にしたものだから正しいと思い込みがちです。
しかし、「確かに私は薔薇を見た」と思っていても、実はカーネーションだったということもあり得ます。今まで私がカーネーションを見たことがなければ、目の前の花の名前を特定する時に、自分の知識から薔薇だと間違った特定をしてしまいます。
このような間違った思い込みは頻繁に起こります。
風邪をひいて味覚が鈍っている時に「この煮物はみりんが入っていない」と誤解したり、夢で見た情報を真実だと思い込んだりすることもあるでしょう。
もしかしたら、人の感覚器官はあてにならないのかもしれません。
懐疑論とは、全てを疑ってかかる思想です。
ある問いに対して、肯定も否定もせず、信じることも信じないのでもなく、判断を保留のままに探求を続ける姿勢です。
実はブッタも懐疑論を取り入れている?
サンジャヤの説いた懐疑論と呼べる思想は、仏教の開祖ガウタマ・シッダールタ(以下ブッダと呼ぶ)の立場にとても近いものです。
当時のインド哲学では頻繁に議論されていたいくつかの問いがあります。
例えば「世界は永遠か永遠ではないか?」という問いに対して、インドの王道哲学であるヴェーダンタ学派は迷いなく「世界は永遠であり無限だ」と説きます。
それに対して、ブッダは答えず沈黙を続けました。
インドの王道哲学では、自己の根源であるアートマンは在ると言うのが常識でした。しかしブッダは、アートマンの存在を認めていません。
では、「アートマンは無い」と否定しているのか?というと、それも違います。
「アートマンはある」「アートマンはない」という2つの極論に対して、どちらにも偏らない立場(中道)こそが仏教の新しい哲学でした。
中道とは、矛盾する2つの主義からなる対立を避けることができるものです。
偏った主義に陥らないための心のコントロール
自分の日常の思考を俯瞰して観察してみましょう。どれだけ思い込みが多いかが分かります。
「これが正解だ」という考えは、違う考えを持った他者との間に必ず争いを生みます。
例えば、世界のどこかで戦争が起こったとしましょう。私たちは、善人と悪人を決めようとします。
なぜならば、片方が正しいと決めて、他方を否定すれば、それ以上考える必要がないからです。
つまり、真実が分からない状態は不安定で不快であり、考え続ける労力をサボるために善と悪を決定しようとするのが私たちの思考です。
1度敵と味方を決めると、人は自分の決定を正しいと思い込みたがります。自分が間違った判断をしたことを認めたくないと考えます。
そのため、敵側が行うことは全て間違いだと考え、相手の立場になって考えることができなくなってしまいます。
歴史は勝者が作るという言葉があります。
大義名分は後からでも作り出すことができてしまい、それによって同じ行為がなされてもヒーローにも悪役にもなります。
実際に争いが起こっている時には、100%の悪も100%ヒーローもいません。どちらの立場でも、自分の大切な人を守るために自ら危険を冒してでも戦っていることでしょう。
日本には喧嘩両成敗という言葉もあります。自分にも相手にも非があった。それを認めることができないと、意見の矛盾が起こる度に、他者との間に争いを生み出し続けてしまいます。
答えを見つけない勇気を持つ
瞑想をしている人の多くが「悟りってなんですか?」という疑問を持ちながら座ります。
そして、瞑想を行う多くの流派が、開祖の悟った答えを言葉で悟りの定義を表しています。
例えばヴェーダンタ派であれば「唯一の真実はブラフマン(宇宙の根本原理)である」という答えを説いています。
これを正しいとするのであれば、瞑想のゴールはブラフマンと一体になることであり、“ブラフマンを体験できなかった人は修行に失敗した人“となってしまいます。
ブッダの生きた時代には、ブラフマンの境地に到達できずに悩んだ修行者が多く存在しました。中には、解脱するまで必死に断食などの苦行を行ったのに、ブラフマンに到達できずに命を落とした修行者もいます。
では、ブッダの答えは何だったのでしょうか?
ブラフマンは存在するかもしれない、存在しないかもしれない、しかし答えを明言しないことです。
どの立場にも立たないことは、足場がない状態で生きているようで最初は不安に感じてしまうかもしれません。しかし、断言しないからこそ、可能性は無限大に広がっていきます。
本来、ヨガや瞑想の効果は無限大です。
しかし「ヨガではこのような効果があります」と定義してしまうことで、かえってヨガの可能性を制限してしまいます。
ヨガを実践するときには、効果を求めず、練習そのものを楽しみましょう。結果を決めずに進んだからこそ、思いもよらない恩恵を受け取ることができます。
常に断言を疑う思考を身に着ける
自分の立場を安易に決めずに、常に疑いを持ち続けることは、新しい視野の発見に繋がります。
誰かが自分と違う意見を持っていたら、好奇心をもって「どうして、そう思うの?」と考えてみましょう。
自分と違う立場の人の考えを知ると、今まで知らなかった新しい世界が垣間見えるかもしれません。
自分の意見を持つことが立派だと考える現代社会で、自分の意見を定めないと言う立場は頼りなく感じるかもしれません。しかし、誰の立場にもなれる、広い視野を手に入れることは、私たちを本当の自由に導いてくれるかもしれないのです。
考えることをやめず、新しい発見を常に受け入れる姿勢こそ、私たちが懐疑論から学べることではないでしょうか。