みなさん、こんにちは!丘紫真璃です。
今回は、このコラムでも度々紹介しているアストリッド・リンドグレーンの名作「長くつ下のピッピ」を取り上げたいと思います。
リンドグレーンの処女作品であるこの作品は、数々の名作を生み出した彼の作品の中でも1番有名であり、みなさんご存じの通り、赤毛の3つ編みが特徴の世界一強い女の子ピッピが主人公です。
彼女の日常ぶりは目が離せないほど面白く、ピッピが本当に近所に住んでいたとしたら、「次はどんなことをするんだろう?」とワクワクして目が離せなかったことでしょう。
それほどピッピは、常識という枠を飛びこえた型破りで面白い女の子なのです。
さて、そんな常識外れで型破りなピッピとヨガがいったいどこが結びつくのか、ピッピに会いに行ってみましょう!
病気で休む娘のために書いた「長くつ下のピッピ」
世界中の人に愛されるピッピが生まれたのは、1941年。肺炎のためにベッドで休んでいた
リンドグレーンの娘カーリンの言葉がきっかけでした。
カーリンが、リンドグレーンに、「長くつ下ピッピの物語を作ってちょうだい」とねだったのです。
そこで、リンドグレーンは、世界一強い長くつ下の女の子ピッピの話を作って、カーリンに語って聞かせました。そして、その3年後、リンドグレーン自身がケガで療養しなければならなかった時に、ピッピの原稿を書き上げたのです。
ピッピの原稿を出版社に持ち込んだところ、1度は断られたそうですが、さらに磨きをかけて、児童書コンテストに応募したところ、優勝。
1945年11月に、「長くつ下のピッピ」は、世に送り出されたのでした。
型破りな女の子ピッピ
主人公のピッピ・ナガクツシタは9つの女の子。ピッピのお母さんは、彼女がまだ小さい頃に亡くなってしまっていません。
ピッピは船乗りのお父さんと船で海を乗り回して暮らしていたのですが、ある嵐の日、お父さんは海に吹き飛ばされて行方不明になってしまいました。
それで、ピッピは船をおり、スウェーデンの小さな小さな町外れの古い家「ごたごた荘」にやってきました。「ごたごた荘」は、ピッピのお父さんが前に買っておいた家だったのです。
ピッピは、小さなサルと馬を家族に「ごたごた荘」で暮らしはじめます。
もう身の上からして型破りなピッピですが、ピッピ本人も、全然型にハマっていないのです。
ピッピは、とてもたいした子でした。いちばんたいしたところは、ピッピがとても力もちなことでした。それは、ものすごい力があって、世界じゅうのどこのおまわりさんがかかっても、とてもかなわないくらいでした。ピッピが『もちあげよう』とおもえば、馬を1頭、まるごともちあげられるくらいでした。
(長くつ下のピッピ)
ピッピは9つながら、スーツケースいっぱいの金貨の持ち主のため、必要なものは自分でなんでもちゃんと買えます。おまけに、ピッピなりに料理も、お裁縫も、家事もできるので、1人でもちゃんと暮らせます。
おまわりさんは、9つの女の子が1人で暮らすなんてとんでもないと、ピッピを施設に入れ
るために「ごたごた荘」にやってきますが、ピッピは愉快な方法で、おまわりさんを追い返してしまいます。
大人もかなわない、おまわりさんも歯が立たない、最強でお金持ちの女の子ピッピ。
火事のマンションに閉じ込められてしまった小さな子を見た時には、大人が誰1人助けることができなかったのに、ピッピはいとも簡単に、それも楽しげに救い出してしまいます。
まさしく、子ども達のヒーロー女の子。それがピッピなんです。
徹底的に型にハマらない
ピッピは本当にもう見事なくらい、普通の人の枠の中に入りません。眠り方1つとってもそうです。
ピッピは、足をまくらにのせて、じぶんの頭のほうにふとんをかけました。これが、ピッピのおきまりのねむりかたでした。
『グアテマラじゃ、こうやってねるのよ』
ピッピは、きっぱりといいました。
『それに、こうするのが、いちばんまともなねむりかたなのよ。こうやってれば、ねむってたって、足の指がうごかせるんだわ』(長くつ下のピッピ)
ピッピは本当だかウソだかわからない話ばかりするので、グアテマラで本当にこうやって眠るのかどうかあやしいところですが、とにかく、ピッピはいつだってこうしてベッドに入り、自分で自分に子守歌を聴かせながら眠ります。
ピッピの金貨を狙って泥棒が家に入ってきた時も、ピッピは、普通の人のように逃げたり騒いだりなんてしません。何しろ、世界1強い女の子ですから、たちまち泥棒2人を綱でしばりあげてしまいます。
それから、泥棒達にこんなことをたずねます。
「あんたたちのどっちか、ポルカを踊れる?」(長くつ下のピッピ)
泥棒達がめんくらいながら「踊れると思う」と答えると、ピッピは泥棒達の綱をほどいてやり、泥棒達がクタクタになるまで、自分と一緒にポルカを踊らせました。
そして、泥棒達が、とうとう踊り疲れてゆかにへばってしまうと、泥棒達にごちそうをくれてやり、金貨を1枚ずつ配ってこう言います。
「これはね、あんたたちが、ちゃんとかせいだお金よ」
(長くつ下のピッピ)
ピッピは自分のお誕生日の時だって、やっぱり普通とは違いました。
お隣の子ども達トミーとアンニカが、ピッピにお誕生日プレゼントを渡すと、ピッピもトミーとアンニカにお誕生日プレゼントを渡してくれたのです。
そして今日は、「わたしたちのお誕生日じゃないのに」というアンニカに、ピッピはこんな風に答えます。
「そうよ。でも、きょうは、わたしのお誕生日よ。だから、わたしが、あんたたちにプレゼントをあげても、いいわけでしょ?」
(長くつ下のピッピ)
ここでご紹介したのは、ピッピの型やぶりな言動のほんの一部にすぎませんが、こんな風に、ピッピときたら、何をやらしても全く普通ではないのです。
縛りというものと無縁なピッピ
ヨガの大きな目的の1つは、縛りから解き放たれるということです。
”こうでなくてはいけない”という偏った観念から解き放たれる…それがヨガの目的の1つですが、ピッピくらい縛りというものと無縁な女の子はちょっと見当たらないくらいですね。
それこそピッピは「9歳の女の子はこうあるべき」なんてものに全く当てはまりません。
9歳の女の子は大人と暮らさなければいけないなんていうおまわりさんのことも軽く追い払ってしまいますし、女の子なのに力持ちですし、学校にだって行きません。
ピッピこそは、縛りから解き放たれるということを体現している女の子と言えるのです。
そのピッピはもちろん、ヨガなんて知らないでしょう。でも、もしも誰かがピッピに「ヨガは身体も心も整うものだから、やってみるととてもいいよ」とすすめたとしても、ピッピは素直にウンとうなずかないはずです。
もちろん、好奇心の強いピッピは、ヨガ教室に出かけてみるでしょう。そして、ヨガの先生よりもはるかにスゴイ人間離れしたポーズを次々に決めて、その場にいた人々をビックリさせるに決まっています。
その後でピッピは、ヨガについて、ピッピオリジナルの感想を披露することでしょう。
正知のよりどころは、直接的知覚、推理、および聖典の証言である
(「ヨガ・スートラ」第1章 第7節)
『ヨガ・スートラ』にこのように書いてある通り、パタンジャリは真に正しい知識とは、“自分の目で見て考えたこと”と、“聖典に書いてあることを自分なりに考えて出した答え”の2つにおいてだけであり、エライ先生がこう言ったからとか、どこそこの本にこう書いてあったからとか、そんなことは全然アテにならないものだと言っています。
それを鮮やかに実行しているのがピッピなんじゃないかと、わたしはそう思うのです。
ヨガの先生に、「ヨガはいいよ」と言われたからといって、頭から信用はしないのです。自分でヨガをやってみて、自分なりの意見を導き出すのです。
ピッピはいつだって、自分なりの流儀で生きており、おまわりさんにも、周りの大人にも誰にも縛られたりしません。自分の流儀をつらぬいて颯爽と自由に生きているのです。
だからこそ「長くつ下のピッピ」は、こんなにも世界中で有名になり、愛され続けてきたのでしょう。
子ども達のヒーローというだけでなく、ピッピはわたし達大人のヒーローでもあるのかもしれないですね。
参考資料
- アストリッド・リンドグレーン著 大塚勇三訳『長くつ下のピッピ』岩波少年文庫(1990年)