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情報過多の時代に生きていると、何が正しくて何が間違っているのかを知ることがとても難しいです。
同じニュースでもテレビで見るのか、ネットで見るのか、新聞で見るのか、どのような媒体で情報を得るかによって全く世界の見え方が変わってきますね。
ヨガでは間違った見解こそが苦しみの原因であると考えます。
では正しい認識とは何でしょうか?ヨガ的な観念で見ていきましょう。
正しい認識とは5つある心の働きの1つ
ヨガとは心の働きを止滅させること。(ヨガ・スートラ1章2節)
ヨガ哲学ではヨガについて上記のように説きます。
心の働きには5つあります。
- 正しい認識
- 間違った認識
- 妄想
- 睡眠
- 記憶
間違った認識や妄念は苦しみを生み出す原因になってしまい、世界を正しく理解することこそが幸福のために必要だと考えられています。
さらに正しい認識は、3種類に分けられます。
直接の知覚、推理、信頼できる証言が正しい認識の源である。(ヨガ・スートラ1章7節)
- 直接の知覚
- 推理
- 信頼できる証言
正しい認識の3つはヨガ哲学が確立する前からインドでは良く知られた概念です。
直接知覚、推理、信頼できる人の言葉、これら3種が認識手段として認められる。(他の学派が認める認識手段もこの3種により)全て成立するからである。(サーンキャ・カーリカー4章5節)
サーンキャ哲学はインドの最も古い哲学の1つで、ヨガ哲学の土台にもなっています。古くから何が正しくて、何が間違った認識なのかは、真実を知ろうとする人にとって重要な課題だったのですね。
ヨガが認める3種類の正しい認識
それでは3種の正しい認識について深く見ていきましょう。
感覚器官から知られる「直接の知覚」
1つ目は直接の知覚です。
これは、私たちの5感によって直接知ることができる認識です。
- 視覚:目で見た色や形
- 聴覚:耳から聞く音、言葉
- 触覚:手などで触れた感覚、温度
- 嗅覚:鼻で嗅ぐ香り
- 味覚:舌で感じる味
自分たちが直接5感から得られた情報は正しい情報だと考えられます。
当然この直接の知覚は、私たちの5感が正しく機能しているという条件が付きます。
よく例えに出されるのが砂漠の中の蜃気楼(しんきろう)です。実際には水が無くても水があるように見え、人々を惑わします。このような幻影によって、私たちは間違った認識を正しい認識だと誤認してしまうことがあります。
これは日常的に起こり得るので注意しましょう。
例えば政治家が言った発言の一部を切り抜いて「なんて酷いことを言うのだ」と捲し上げるニュースがあっても、実は全体の映像を見ると全く違う意味の発言の場合もあります。
自分は直接見た、聞いた、と思っている事柄に対しても、冷静になることが必要な場合もありますね。
論理で見出す「推論」
推理も正しい認識の1つとして認められています。
例えば「火のないところに煙はたたない」という言葉があります。山の方から煙が上がっているのを見れば、そこで何かが燃えているという事実が導かれます。これは推論です。
しかし、推論も行き過ぎると妄想になってしまう場合もありますね。向こうで煙が立っているから、火事が起きているに違いないと考えるのは妄想です。誰かが炊事のために火をおこしているだけの場合もあります。
必ず真実だと認識できる推論と、妄想の差を知ることも難しいのですね。
教典から学ぶ「信頼できる証言」
インド哲学で「信頼できる証言(アーガマ)」は伝統的に聖典の言葉を意味します。教典とは、インドで最も古いとされる『ヴェーダ聖典』です。
この正しい証言は私たちが論理展開で証明できないものを多く含みます。
例えば世界の始まりの時に何があったのか、ブラフマンと呼ばれる宇宙の根源が存在するのかどうかは、誰も証明することができません。現代でも宇宙の始まりを科学的に解き明かそうとする学者は沢山いますが、誰1人断定することができていません。
このような答えのない問いに対して、ヴェーダという神が授けたとされる言葉(ヴェーダ)を正しい認識だと認めることは、インドの哲学を大きく発展させました。
後にブラフマンの存在を認めない哲学学派も多数発生しましたが、そういった新しい思想の誕生にもヴェーダという当時のインドで絶対的だと考えられていた聖典の存在が大きな影響を与えています。
また信頼できる証言を、グル(師)の言葉だと考えることもできます。この場合、すでに真実を知り、悟りを得たグルの言葉である必要があります。
すでに経験した相手からの言葉は、真実だと信じられるものであると考えます。
自身で真実を経験するためのヨガ
ヨガでは、グル(師)の存在をとても重要視し、グルの言葉を真実だと信用することが大切だと教えます。
しかし、真実について説かれた言葉を聞くこと、教典を読むことが、必ず真実を知ることと直結しているわけではありません。
ヨガにおける正知とは、言葉で理解することではなく、実感をもって知ることです。つまり体験こそが最も重要であり、グルの言葉は修行者を体験に導くためのものです。
練習を行う人に成功は訪れる。練習無しでどうして成功が訪れよう。聖典を読むだけではヨガの成功は起こり得ない。(ハタヨガ・プラディーピカ1章65節)
正しい認識は、私たちを幸福に導いてくれるものです。しかし、認識すること自体が幸福ではありません。
「知る」という言葉には、知識として知っている場合と、実際に理解している場合があります。
「ヨガの瞑想でサマーディ(三昧)に到達できる」ということを、教典に書かれていることや、実際にサマーディに到達した先生の言葉で知ることはできます。
しかし、サマーディが何なのか?を本当の意味で知るためには自分自身が瞑想によってサマーディに到達する必要があります。
言葉というのは常にそれを発した人のフィルターを通して発せられます。そのため瞑想で悟りに到達した人の中にも「空」という言葉で説明する聖者もいれば「プルシャ(真我)独存」という言葉を言う人もいます。
言葉は発した人によっても変わりますが、受け取った人の理解によっても意味が変わってしまいます。ヨガではどれだけ練習と実体験が大切か分かりますね。
自分の見ている世界が正しい認識か考え直す習慣を持とう
私たちの多くは何かしらの思い込みをし、それによって世界を複雑に考えてしまいます。
例えば「お母さんは私のことを本当は大切に思っていないのでは?」という妄念に駆られると、その間違った説をあらゆる推理で広げて、真実と全く異なった思考の積み重ねで人生が過酷なものになってしまいます。
途切れなく思考が働いていると、自分の考えが正しいのか、間違っているのかを見直す時間も持てません。
ヨガでは日常働き続けている思考を休止させます。
いったん距離をとって、改めて見直すことで、根本的な間違いに気が付くこともできます。その冷静さはとても大切ですね。
無知は幸福を阻害するものであるとヨガでは説きます。自分自身の思考を俯瞰して、妄念を手放せるようにしましょう。