大樹の根元で瞑想する白い衣装を着た女性

純粋なヨガのサマーディと俗世的なサマーディ

ヨガで「悟り」というとサマーディという言葉を思い浮かべる方が多いと思います。

サマーディは漢字で三昧と書きます。

「ぜいたく三昧」「映画三昧」「仕事三昧」「読書三昧」のように、何かに没頭してそればかり行うことも○○三昧と呼びます。

そもそもサマーディとは何なのか、ヨガで目指すサマーディへの理解を深めてみましょう。

ヨガの修業の先にあるサマーディ(三昧)とは

せり出した岩地の先端で夕日に向かって瞑想する女性
サマーディ(三昧)については、ヨガの教典『ヨガ・スートラ』の中に書かれています。

ヨガ・スートラによると、ヨガの修業には8つの段階があります。サマーディとは、8つ目の1番最後の段階です。

瞑想対象のみが輝いて現れ、あたかも瞑想者の自己意識を消失した境地がサマーディである。(ヨガ・スートラ3章3節)

サマーディは、瞑想を行った結果訪れる精神的な状態です。

  1. ヨガ・スートラの瞑想は一点の対象に向かって集中するダーラナ(集中)から始まります。
  2. 留まることなく集中が深まるとディヤーナ(静慮)の状態に入ります。
  3. ある対象に対する瞑想が深まった結果、自分自身のエゴが弱まります。
  4. そして、自我を忘れてしまった状態をサマーディ(三昧)と呼びます。

サマーディは瞑想以外の時でも起こり得ます。自身にとって魅力的で意識が結びやすい対象に集中していると、それ以外のことを全て忘れてしまうからです。

例えば子供が大好きなゲームに没頭していたり、漫画を読んでいたりすると、母親に呼ばれても全く聞こえていないことがあります。

それは瞑想状態とは呼べませんが、意識が1つのことに結びついて他の対象に向かいないという意味では、ヨガのダーラナと類似しています。

煩悩性のサマーディと純粋なサマーディ

くつろいだ様子で読書する女性
映画三昧、読書三昧のように、趣味に深く没頭している状態も三昧という言葉で呼ぶことができるのなら、そのようなものとヨガのサマーディ(三昧)の違いは何なのでしょうか?

ヨガでは思考を弱める

○○三昧といった言葉で表されるものとヨガ的なサマーディの状態にはいくつかの差異があります。

まず、ヨガのサマーディでは思考そのものを止めるという努力を意識的に行うことです。

例えば休日は読書三昧で食事や寝る時間さえ忘れてしまう人であっても、読書を続けられている時に思考そのものは働き続けています。贅沢三昧している人で、快楽に身を任せて理性を忘れていたとしても、次に何をするか常に考え続けていますね。

ヨガでは意識と思考を別物と考えるため、意識は起きていても思考は制止するようにアプローチします。

外に意識が向く煩悩性の三昧と内に向かうヨガの三昧

またヨガの瞑想では、意識の方向が内側に向いています。

映画三昧や読書三昧などは、常に5感で感じ取る自分の外側の対象に対して意識を繋いでいます。

自分の外の対象に心を委ねると、対象の良し悪しに心が左右されます。爽快な映画を見ていれば快楽を感じ、陰気な映画を見ている時には不快な感情を得るでしょう。

そのように一喜一憂する感情を楽しむのも人生の趣(おもむき)の1つですが、自身の本質を探るヨガの瞑想とは大きな違いがありますね。

ヨガの三昧はエゴを弱めるためのもの

映画などの対象に対して没頭するあまり、自我を忘却するほど集中する状態は起こり得ますが、それでもやはり、積極的に自ら自我意識を無くす努力をするヨガの瞑想とは大きな違いがあります。

ヨガの三昧では、自分が思い込んでいる自分(プラクリティ)と、自分の本質(プルシャ)の両方を客観的に見る努力を行います。

これによって、積極的に自分に対する固執、エゴ(自我意識)を弱めていきます。

ヨガの純粋なサマーディ(三昧)の効果

ヨガの目的はサマーディを体験すること自体ではなく、それによって学びや悟りを得ることです。

では、ヨガで目指している学びとは何でしょうか。それは、どのように苦しみを弱めて、幸福を得るかです。

ヨガ哲学では、エゴを弱めて執着を無くすことが苦しみを手放す方法だと説きます。

私たちは「自分」というものに強い執着を抱くから苦しくなってしまいます。

自分と他人を比べて、自分の方が沢山与えられていないと惨めになります。他の人のところに富が集中しようとすると、何とか奪おうと争いが起こります。

自分自身の長所が分からずに他人よりも劣っていると勘違いして自己嫌悪に苦しむこともあります。

これらは全て、自分の世界の中で自分が1番大切だと考えているから起こる苦しみです。

ヨガでは梵我一如という考え方があります。自分自身は大きな宇宙と一体だと考える概念です。これを知ることができると、自分と他者、世界全体を客観的に俯瞰してみることができます。

今までは狭い視野で「良い」「悪い」と批判していた物事に対しても、それが間違っていると気が付くこともできます。

そのように、視野を大きく広げることができるのもヨガです。

卓上の理論を体験に落とし込むことで得られる幸福

ひっそりと咲くピンクの美しい蓮の花
ヨガの哲学は全て、ヨガの実践によって体験できることを説いています。

自分と世界を俯瞰して見る視野も、瞑想体験の中から学ぶことができます。

瞑想の初期段階のダーラナ(集中)では、頭の中にイメージした1つの対象に対して意識を結びつけます。例えば、蓮の花に向けて意識を集中させるとします。

自分の意識が100%蓮の花に向いている時には、そこに自分に対する固執が働いていません。

最初は「自分が蓮の花をイメージしている」という認識がありますが、瞑想が深まっていくにつれて、蓮の花が心の中を満たし、自分の存在そのものを忘れてしまう状態を経験します。自己を忘却したその体験自体がサマーディの第1段階です。

自分の置かれた状況などの色眼鏡なしに花を客観的に見ることができると、本来の花の美しさを知ることができます。

普段は固執して離れない自我意識を手放し、自分ではない蓮の花の美しさを楽しむ。それはヨガ的な純粋な幸福です。

同じように花を見ていても自我が強まっている時には「自宅に花を持って帰りたい」と所有欲が湧き、写真を撮って保存したいと固執が起こります。

サマーディが起こっても、自我や固執が急に無くなるわけではありません。最初の段階では「自分はサマーディに到達したのだ」と、余計に自我が強くなってしまう人も多くいます。

その自我によって、1度サマーディを経験しても、2度目がなかなか体験できずに悩む人もいます。

しかし、ひたむきに練習を続けることによって、サマーディの経験がもっと身近になってきます。繰り返し体験することによって、練習を行えば必ず到達できるものだという安心感が生まれてきます。

その時、「私は過去にサマーディを経験した」のような、過去への執着は不要になります。

今この瞬間の体験を純粋に楽しめるようになると、目の前に無いものに対する欲も弱まります。

「ない物ねだり」が無くなると、幸福を感じやすくなります。

葡萄が季節外れなら、旬のスイカを楽しむ。恋愛が終わってしまっても、今までになかった1人時間を楽しむ。

このように、その時々に与えられたものに意識を向けて楽しめる人は、幸福を受け取りやすいです。

ヨガのサマーディは自分の意識を変えるためのもの

手に植物を持ち微笑みを浮かべる長い髪の女性
瞑想やサマーディなどを、スピリチュアルで特別な体験をするためのものだと勘違いしてしまうと、本当の恩恵に気が付くことができなくなってしまいます。

ヨガでは、サマーディなどの体験によって自分がどのように変わったかの方が大切です。

自身の意識が幸せに結びつきやすくなるのであれば、必ず長時間の瞑想をしてサマーディに到達する必要はないのかもしれません。

アーサナの練習の中でも、深い呼吸の中でも、その体験によって得られた学びを大切にすることが、ヨガの恩恵を受け取る上でとても大切です。

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