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ヨガの成功の条件として、『ヨガ・スートラ』や『バガヴァッド・ギーター』などの教典では離欲(ヴァイラーギャ)が大切であると説いています。
ところで、ヨガの離欲とはどういう意味でしょうか?単純に富や名声に対しての欲を捨てて、質素な生活を心がけていたらそれが離欲なのでしょうか?
ヨガの離欲について、もう少し深く考えてみましょう。
離欲(ヴァイラーギャ)で手放すべき価値観
離欲と聞くと、ほとんどの人は贅沢から離れて質素に慎ましく生きることをイメージします。
例えば、沢山お金を稼ぎたいという欲や、豪華な食事を食べたい、新しいヨガウエアが欲しいなど、物質的な欲を手放すことがイメージされやすいです。
しかし、ヨガで手放すべき欲は、物質的なものや、名声だけではありません。
そもそも、欲とは何なのかを考えてみましょう。
例えば恋愛であれば、片思いの時には毎日顔を見られるだけでも幸せです。しかし、少しずる「自分のものにしたい」という欲が出てくると、恋人関係を求めるようになります。
最初は両想いであるだけで、「人生で今が最高だ」と喜びを感じることができるでしょう。しかし、何か月、何年と時間が経つにつれて恋人であることもあたりまえの日常になってしまいます。
恋人なら記念日に特別なディナーを用意して欲しい、豪華なプレゼントが欲しいと、欲望が出てきてしまいます。1度素敵なクリスマス・ディナーに行き、翌年のクリスマスがカジュアルなお店だと、「前はこんなにしてくれたのに」とガッカリしてしまうかもしれません。
しかし、常に上を上をと目指し続けることは大きな負担になってしまいますね。
欲とはラーガ(貪愛)の感情に繋がっています。
楽しいことや嬉しいことがあると快楽を感じますが、快楽は慣れてしまうとさらに大きな快楽が必要になり中毒性があります。やっと頑張って得ることのできた歓びでも、それが当たり前になると物足りなく、さらに大きな快楽が必要となり欲望は絶えません。
また、1度手にした快楽は失う怖くなり、状況が変わって維持が難しくなっても手放すことができなくなってしまいます。
ラーガ(貪愛)は嬉しい感情に繋がっているのでポジティブなものに思えますが、ヨガ哲学では苦しみを生むクレーシャ(煩悩)の1つだと考えられています。
離欲で手放すのは価値観そのもの
ヨガの離欲は贅沢や物質そのものを遠ざけることではありません。
あらゆるものに執着して欲しがる価値観自体を手放します。
私たちの人生は様々な価値観にとらわれて生きていることを自覚してみましょう。
学業や仕事での成績、家族、社会的立場、収入、所有物などです。自分の人生が正しい、良い人生かをジャッジするための価値観そのものが私たちの足かせになっています。
家庭であれば、自分の両親から学んだ家族の在り方に囚われてしまうかもしれません。
例えば、自分の母親がしてくれたように食卓には毎日3種類のおかずがないといけない、出来合いのお惣菜をそのまま食卓に出すなどは怠慢だという親の価値観に囚われてしまうと、それができていない自分が許せないかもしれません。
人生でのこだわりは悪い物ではありませんが、それが大きな肩の重荷になっている場合もあります。
自分が持っている価値観やこだわりが、自分にとって快適なものなのか、もしくは執着が強まって手放せなくなってしまっているだけなのか、見直してみるものいいかもしれません。
安定することからも離欲する強さ
ヨガのヴァイラーギャでは、3つのグナの生み出す全てのものへの執着を捨てます。
3つのグナとは、私たちが認識できる物質世界全てを作り出す元素です。
サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)の3つは、常に動き続けていて、形状を変え続けています。
そして、この3つのグナから発生するあらゆるものも、常に形を変化し続けています。
例えば、山や川のようにずっとあると思っているものでさえ、刻一刻とかたちを変化させ続けています。
仏教で諸行無常という言葉で表すように、世の中の全てのものは無常であることを受け止められないと人生は必ず苦しいものになってしまいます。
人生で努力して、自分の快適な場所を築き上げたと思っても、そこに執着をしてはいけません。
それも離欲(ヴァイラーギャ)の実践の1つのあり方です。
ヨガで到達したものであっても手放せる強さ
ヨガの練習を行っていると、自分自身を歓びの対象と感じることができ、とても純粋な幸せを実感できるようになります。今まで知らなかった世界が開けたように感じる人も多くいるでしょう。
しかし、そのようなヨガの恩恵にさえ執着をしないことをヨガ・スートラでは説いています。
至高の識別知を得てさえ離欲を保持する者には、完全な識別知による法雲三昧が生じる。(ヨガ・スートラ4章29節)
特に8支則の最終段階であるサマーディは執着の対象となりやすいです。
例えば、サマーディに1度到達したけれど長くとどまれないことは、ヨガの障害の1つとして記されています。
ヨガの障害とは病気、無気力、疑心、落ち着きのなさ、ものぐさ、執着、妄想、サマー-ディに到達できないこと、サマーディに留まれないこと、など、全て散乱な心の状態である(ヨガ・スートラ1章30節)
サマーディに到達するためには、あらゆる雑念を制止しなくてはいけません。
しかし多くの人は1度サマーディに到達すると、「もっと長く留まっていたい」と願います。それ自体が新しい欲望となってサマーディを遠のけてしまいます。
また、1度サマーディを体験した後に、なかなか2度目の経験ができないと、それが新しい苦悩となってしまいます。
サマーディと聞くとなかなかイメージができない方もいると思いますが、アーサナなどの身近な練習でも当てはまることができます。
例えばシールシャアーサナ(頭倒立)のポーズが初めてできた時にはとても嬉しいです。今までの生活とは違うバランスを経験して、面白いと感じます。
しかし、3秒ホールドできたからと言って、もっともっとと練習を続けていれば、だんだん集中力も体力も足りなくなってしまって転倒や怪我のリスクが上がってしまいます。
また、興奮状態では身体の声も聞き取りにくくなってしまうため、許容量以上に練習すると後から首の痛みが現れるかもしれません。
嬉しい恩恵が与えられたとき、その喜びを味わいながらも、さらに多くを求める貪欲さには注意できると良いですね。
離欲によってもっと多くの喜びに出会える
欲を手放すこととイコールで、質素に生きることだと考える方もいらっしゃいます。
しかし、実際にヴァイラーギャを実践していると想定以上の大きな喜びに出会うことができるでしょう。
「これが欲しい」と特定の対象を追い求めていると、自身が予定していた創造の範囲内の喜びを感じることができるかもしれません。予定を建てて、自分の計画通りにタスクをこなすことも1つの楽しみです。
しかし、予定通りに進まないとストレスを生み出すので、できるだけ失敗しないような道ばかり選んでしまいがちです。
努力は良いことですが、その先のゴールに対して執着しないことで、違う未来が与えられるかもしれません。
予定と違う状況に陥った時には、その時々臨機応変な対応が必要になります。それは簡単ではありませんが、思いもよらなかった状況が、思いもよらなかった楽しみを生むこともあります。
そして、その結果として与えられたものは、素直に喜んで受け取りましょう。
「金儲けを目的としたくない」と考えていても予想以上の収入が与えられるときもあります。自分の計画と違う結果であっても、与えられたもの全てに感謝できるといいですね。
世界は思いもよらない喜びであふれています。
それを感じ取るためには自分の価値観にさえも執着しないヴァイラーギャが近道なのではないでしょうか。