左右の手で丸い何かを包むような動作をとる人の手元

一元論?二元論?目的から考えるギーターとヨガ・スートラの違い

ヨガの哲学で、一元論と二元論という言葉をよく耳にします。

教典でいうと、『バガヴァッド・ギーター』は一元論、『ヨガ・スートラ』は二元論として書かれることが多いです。

同じヨガの教典として知られている2大教典であるのに、どうして哲学の根本の部分で違いが生じてしまったのでしょうか?

それを理解するためには、それどれの哲学が生まれた背景を知ることが効果的です。

バラモン教から発生したギーターの一元論哲学

バガヴァッド・ギーターとお香とキャンドル
バガヴァッド・ギーター(以下ギーター)はインドではヒンドゥー教の教典として知られています。

ヒンドゥー教はインドの約8割の人が信仰している宗教であり、インドの人にとってバガヴァッド・ギーターはとても馴染みの深い教典です。日本ではヨガの教典として知られているので不思議に感じる方もいるでしょうが、インドではヨガと宗教は切っても切り離せない関係にあります。

インドでは、ヨガはヒンドゥー教の伝統の一部として受け入れられているのです。

現代ではアジア以外の欧米諸国でもヨガを実践している人が増えてきたので、宗教心の全くない人がバガヴァッド・ギーターを勉強する機会も増えています。

バガヴァッド・ギーターには「生き方の教科書」という側面が強く、それは宗教に関係なく誰もが学ぶことができます。
しかし、いざバガヴァッド・ギーターの本を買ってページを読み進めていくと、どうしても宗教的な表現が多いことに気が付くでしょう。

バガヴァッド・ギーターの発生した背景を少し学ぶと、理解して読みやすくなるかもしれません。

インドの司祭文化が生んだギーターの教え

少しだけインド思想の歴史について簡単にまとめます。

インドで最も古い時代に書かれた聖典は『ヴェーダ』と呼ばれています。ヴェーダには4つの聖典がありますが、その中でも最も古いものが『リグ・ヴェーダ』であり、紀元前1,200年頃に書かれたと言われています。

ヴェーダ聖典は、インドのカースト制の頂点にいるバラモン(司祭)が、儀式を行い瞑想状態になった時に神から与えられた言葉をそのまま書き記したものです。

つまり、ヴェーダ聖典は人間が作ったものではなくて、神的存在から与えられたもの、天啓聖典であるとされています。

ヴェーダは現在のインド思想の土台になるものですが、神から与えられた言葉はそのまま理解することが難しいものでした。そのため、バラモン(司祭)の中から学者たちがヴェーダに書かれた世界の真実を少しずつ解き明かしていきます。

そうして書かれた教典を『ウパニシャッド』と呼び、約108のウパニシャッドが存在しています。

このようにヴェーダの思想を解き明かして、現代のインド哲学を作り出してきた人たちはヴェーダンタ学派と呼ばれています。

ギーターは、このヴェーダンタ学派の教典です。

ウパニシャッドに説かれたインド哲学は、バラモン(司祭)がサンスクリット語(梵語・神の言葉)で記したものであり、バラモン階級の人にしか学ぶことができないようなものでした。

しかし、それでは人口の多くを占める労働者たちの救いにはなりません。ギーターでは、難解なヴェーダンタ学派の教えを、下位カーストの一般庶民に分かる言葉で分かりやすく説いたものです。

ここから分かるように、ギーターはインドの社会制度を作り上げたバラモンの思想を集約したものであり、国やカーストといった社会システムの中で生きる人に向けて説かれたものでした。

ギーターでは、ヨガを出家僧だけのものではなく、誰でも日常生活の中で実践できるものとして説いています。

ギーターと一元論

バラモンと呼ばれる司祭は、宇宙や人間社会について深く理解し、世界が上手く回るようにと王族にアドヴァイスをする立場の人たちです。

そのためバラモンの追究する哲学は、宇宙全体や人間社会全体を包括するものである必要があります。

ヴェーダンタ哲学では、世界はたった1つのブラフマンであると説きます。

全てはブラフマンから発生し、(どの瞬間でも)ブラフマンであり、ブラフマンの中に帰っていきます。

ギーターの説いている一元論は、宇宙全体を知ろうとするヴェーダンタ学派の答えとしては、とても自然なものだと感じられます。

自己探求から生まれたヨガ派の二元論

一方で、ヨガの教典ヨガ・スートラでは二元論という哲学を採用しています。

そもそもヨガとはどのようなものだったのでしょうか?

ヨガの歴史の中で最も古いものは、紀元前3,000年頃に作られたインダス文明の遺跡のモチーフだと考えられています。

シヴァ神の前身の姿だとされるパシュパティ神(獣の神)が動物に囲まれて瞑想をしている姿の印章は、インダス文明の時代にはすでにヨガ的な瞑想を行っている人が存在した証明として知られています。

瞑想的なヨガを実践していたヨガ派の人たちは、ヴェーダンタとは全く違う発展を遂げます。

カースト制度社会の中心で政治にも深く関わったバラモン(司祭)たちとは対極に、ヨガ派の人たちは出家して社会生活から離れた場所で教えを伝承し続けます。

多くはジャングルやヒマラヤなどの山といった人里離れた場所で、ひたすら自己と向き合い瞑想を続けます。

岩山に座って瞑想するシヴァ神の像

ヨガの目的は、自分の内側に向き合い、自身の本質を理解することです。徹底して自己探求を続けたヨガ派の修行者にとっては、自分自身を理解することが大切であり、世界全体との繋がりには関心が弱かったのかもしれません。

ヨガの瞑想を続けたヨガ派の人たちは、人間は霊魂(プルシャ)と物質(プラクリティ)の2つが出会うことによって発生したのであると気が付きます。

全ての物質(プラクリティ)は無常なものであり、必ず苦しみを生み出してしまいます。そのため、物質世界への執着を弱め、自己の本質(プルシャ)の内に幸福を見出します。

このようにプルシャとプラクリティの2つを全ての根本だと考える哲学を二元論と呼びます。

二元論が生まれたのは、自己探求というテーマがあってこそなのですね。

結論よりも道に重きを置いてヨガを学ぶ

「結局ヨガを深めると何が知れるの?」と結論や答えを急いでしまうと、「どうして一元論と二元論の2つがあるのか?」と疑念を抱いてしまいます。

そして、“どちらの哲学が正しいのか“を、理論的に議論することに意識が向いてしまいます。

しかし、このように卓上の理論に頼ってヨガを理解しようとすることは、ヨガ的にはとてもナンセンスなことです。

伝統的なヨガでは、生徒が疑問を抱いても、先生が簡単に答えを授けることはありませんでした。

なぜならば、真実は常に自身の実践の中から見つけ出すべきであり、教科書の知識として記憶するものではないからです。

ヨガ・スートラでも、バガヴァッド・ギーターでも、私たちが教典から学ぶべきことは“HOW(どのように)”というテーマです。

ブラフマンやプルシャといった超越した存在は、言葉で理解しがたいものです。真実は、自身のヨガの実践の中から見つけるしかありません。

教典に書かれた言葉が理解できなくても大丈夫です。ヨガを深めると、少しずつ「これがプルシャかも!」という新しい体験が増えてきます。

この体験で見つけたことが、教典から学んだことの理解を一気に深めてくれます。

必ず知識と実践の両方を取り入れるようにしましょう。

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