皆さん、こんにちは!丘紫真璃です。今回は、大正と昭和時代に活躍した小説家、稲垣足穂の「一千一秒物語」を取り上げたいと思います。
知らない方が「一千一秒物語」という題名だけ読むと、小説なんじゃないかとお思いになるかもしれませんが、足穂自身は「一千一秒物語」のことを詩だと言っております。
摩訶不思議な詩が無数に入っているものというべきか、超短いショートショート集というべきか。そういうようなものが「一千一秒物語」なのです。
時代も国籍も越えた、他には2度とないオリジナリティあふれる作品群である「一千一秒物語」。
後に多くの文学者が絶賛している稲垣足穂の摩訶不思議な詩の世界と、ヨガとはどんな関係があるのでしょうか?
足穂の世界に飛んでいって、みなさんと考えていきたいと思います。
「一千一秒物語」と稲垣足穂
作者の稲垣足穂は、1900年生まれ。神戸で育った神戸っ子です。
幼い頃から映画と飛行機に夢中で、パイロットを志していたそうですが、近視のために断念。しかし、飛行機に夢中になった経験は、後に彼の作品に大きな影響を与えました。
「一千一秒物語」を開いていただければ、いかに彼がパイロットと天体に夢中になっていたかが、よくわかっていただけると思います。
1921年、詩人の佐藤春夫に「一千一秒物語」の原型となる原稿を送り、以後、佐藤春夫に師事。
1923年「一千一秒物語」を金星堂より刊行。一躍注目を集めます。
この作品について、彼の師である佐藤春夫は「童話の天文学者―セルロイドの美学者」という序文を寄せ、芥川龍之介は「大きな三日月に腰掛けているイナガキ君、本の御礼を云いたくてもゼンマイ仕掛けの蛾でもなけりゃ君の長椅子には高くて行かれあしない」という言葉を寄せました。
シュルレアリスムの詩
稲垣足穂の「一千一秒物語」がどんな作品かとみなさんにご説明したくても、ものすごく難しいものがあります。
“お月様や星や、流星やホウキ星が街角に出現する不思議な作品”としか言いようがないので、ここでお月様が出てくる作品を1篇だけご紹介してみましょう。
「ポケットの中の月
ある夕方、お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた
坂道で靴のひもがとけた
結ぼうとしてうつ向くと ポケットからお月様がころがり出て
俄雨にぬれたアスファルトの上をころころころころころとどこまでもころがって行った
お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので
お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった
こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった」(「一千一秒物語」)
流星が登場する作品も1遍ご紹介します。
「流星と格闘した話
ある晩オペラからの帰り途に 自分の自動車が街かどを廻るとたん 流星と衝突した
「じゃまするな!」
と自分は云った
「ハンドルの切りかたが悪い!」
と流星は云いかえした
流星と自分はとッくんで転がった
シルクハットがおしつぶされた
ガス燈がまがって ポプラが折れた
自分は流星をおさえつけた
流星はハネ返って 自分の頭を歩道のかどへコツンと当てた
自分は二時すぎにポリスに助け起されて家へ帰ったが すぐにピストルの弾丸をしらべて屋根へ登った
煙突のかげにかくれて待っていた
しばらくたつとシューといって流星が頭の上を通りすぎた
ねらい定めてズドン!
流星は大弧をえがいて 月光に霞んでいる遠くのガラス屋根の上に落ちた
自分は階段をかけ下りて 電燈を消して寝てしまった」(「一千一秒物語」)
ご紹介したような摩訶不思議な作品が何編も入っているのが、「一千一秒物語」なのです。
少し、お分かりいただけましたでしょうか。これはもう、実際に読んでいただくのが1番ですね。
「一千一秒物語」は、シュルレアリスムの詩だと言われています。
シュルレアリスムとは何なのかと言いますと、合理性を捨てるということ。「こうなったから、こうなって、だから、こうなりました」みたいな形になっていないということですね。
ハッキリ言ってしまえば、わけのわからないものということなのですが、とにかく頭で理解しようとしても理解できないものがシュルレアリスムの詩なんですね。
シュルレアリスムの詩は脳で理解するのではなく、ただ感じるものなのです。
無意識化で感じる詩
シュルレアリスムの詩は、ただ感じるものだと言いましたが、もっとくわしく言うと、意識化ではなく、無意識化で感じるものといえるのではないかと思います。
無意識化で感じるとか言われてもピンとこない方は、夢を思い浮かべていただくと良いと思います。
夢は無意識で見るものです。そして、夢の世界というものは、時や空間を超え、こうでなくてはならないという常識も全く通用しない世界です。
つまり、無意識の世界は、時や空間の縛りを超え、さらにはこうでなくてはならないという常識世界の縛りを飛び越えたところにあるのです。
だから、無意識の世界では、ポケットから月が転がり落ちたりするのです。
ポケットから月が転がり落ちるなんて、常識で考えたらどう考えたってヘンです。大きな天空の月が、まさか人間の小さなポケットの中に入るはずもありません。
でも、無意識の世界では、時や空間、大きさといった縛りは全く通用しませんし、こうでなくちゃいけないという常識の縛りも全くないので、ポケットから月がコロコロ転がり落ちて、はたまた、それが自分になったりする奇妙なことが起きるのです。
そう、足穂の詩は、まさしく、無意識の世界を展開させた詩なのですね。
無意識の世界の詩
時や空間に縛られない無意識の世界。
それは、ヨガにおいても非常に大切なものです。
ヨギーは、時や空間、常識といった縛りを超えた無意識の世界を求めて、瞑想をするのです。
瞑想によって、時や空間、常識に縛られない無意識の世界に到達したヨギーは、さらに深い境地を目指します。
時や空間、私達のこの身体、精神というもの、全ての縛りが全くない永遠の世界、プルシャ。
ありとあらゆる縛りから、真に開放された永遠の世界プルシャ。
ヨギーは最終的にそこを目指して、瞑想の旅をするのです。
そう考えると、「一千一秒物語」は、瞑想の旅でヨギーが見る景色を書き表した詩といってもいいのかもしれません。
私達は、自由自在に無意識世界をのぞくことはできません。夢は見ようと思って見られるものではないですし、瞑想によって無意識世界に行こうと思ったって、そう簡単にできるわけでもありません。
けれども、「一千一秒物語」を開いたら、そこには、めくるめく無意識世界が展開しているのです。
時や空間という縛りを超えた自由な世界。
時代や国という縛りを超えた町角で、人間と月と流星が絡み合う摩訶不思議な世界。
そんな自由な無意識の世界を存分に味わわせてくれるのです。
私達は普段、覚醒して目覚めている世界の中で、勉強し、仕事をし、何かを学び、情報を得、友達と交流し、忙しい毎日を送っています。
けれども、そんな忙しい意識の世界がたまに疲れた夜には、綺麗な月を眺めながら「一千一秒物語」をめくって、無意識の世界をのぞいてみてはいかがでしょうか。
忙しく過ぎゆく日常の中の特別な時間になると思います。
参考資料
- 『一千一秒物語』稲垣足穂 著(新潮文庫)昭和44年
- 『一千一秒物語』稲垣足穂 著(透土社)1990年