胸の前で両手でハートマークを作る女性の手元

「ありがとう」の語源から学ぶサントーシャ(知足)の心

日本語の中でも最も美しい言葉に「ありがとう」と感謝を伝える言葉があります。

その「ありがとう」という言葉の語源は、じつは仏教が由来だと聞いたことはあるでしょうか?

私たちに与えられたものは「有り難い」ものであると認識し、常に喜びを感じることによって、人生がより豊かなものになります。

今回は「ありがとう」という言葉について考えてみましょう。

「ありがとう」の語源になった仏教の話

お釈迦様とそのお釈迦様の話に耳を傾ける弟子たちの様子を表す銅のレリーフ
「ありがとう」は文字の通り「有り難い」という言葉から生まれた言葉であり、仏教の盲亀浮木の例え話から発生したと考えられています。

ある時お釈迦様が弟子の阿難(あなん)に話しかけました。

「君は人間に生まれたことをどう思う?」

それに対して阿難は
「大変嬉しく思っています」
と答えました。

するとお釈迦様が言いました。

「果てしない海の底に、目が見えない亀がいる。その目の見えない亀が100年に1度だけ海面に顔を出す。広大な海に1本の木が浮いている。その木には小さな穴が開いている。その海に浮く木は、風が吹くたびに東西南北に動き続けている。さて、100年に1度だけ海面に浮いてくる盲目の亀が、たまたまその木の穴から顔を出すことが果たしてあり得るのだろうか。」

阿難は答えます。

「そんなことは、到底あり得ないと思えます。」
「絶対にあり得ないと言い切れるのだろうか?」
「何億年も何兆年もの間に、偶然起きることがないとは言い切れません。しかし、ほぼ不可能だと言い切れるでしょう。」

そしてお釈迦様が言いました。

「私たちが人間として生まれてくるのは、盲目の亀が木の穴から頭をひょいと出すことよりもさらに有り難いことなんだよ。」

この例え話で、お釈迦様は、私たちが人間として生まれてきたことがどれだけ有り難いことかを説いています。

どれだけ有り難いことかを知ると感謝が生まれる

この例え話のように、私たちが人間として生まれてきた奇跡がどれだけ尊いことなのかを知ると、人間として生を得て毎日健康に生活していることに対して大きな幸福を感じることができますね。

また、その貴重な人生を精一杯生きようという活力が湧いてきます。

感謝とは、恩恵を与えてくれた対象に対する尊敬や愛を含んだポジティブな想いです。

与えられたものに気が付いて幸福を得るヨガのサントーシャ(知足)

笑顔で両手を胸に当てる女性
同じように、自分に与えられたものに気が付き感謝することをヨガではサントーシャ(知足)と呼びます。

サントーシャは、幸せに生きるための鍵です。

サントーシャを守ることで、無常の幸福が訪れる。(ヨガスートラ2章42節)

ヨガでは、幸福を得るために、新しいものを足す必要はないと考えます。

例えばお金について考えます。

今よりも幸せになるための方法は、今よりも沢山お金を稼ぐことではありません。「沢山のお金=沢山の幸福」だと考えてしまうと、収入が5割増しになったとしても、自分よりも多くのお金を稼ぐ人を見るたびに惨めに感じ、妬みや嫉妬を抱いてしまいます。

もしも収入が増えなかったとしても、今与えられた仕事にやりがいを感じ、安定して生活のできる環境に満足することができれば、ネガティブな感情は生まれてきません。

今与えられたものに感謝して生きるということは、何も変わらなくてもいいという単純な意味ではありません。

「安月給なのに忙しい」と文句を言いながら仕事をするのと、「大変だけど充実している」と感じながら仕事をしているのでは、その気持ちが仕事中の態度に現れます。

自主的に仕事で関わる人たちのために工夫していれば、即座に収入が増えるわけではなくても、信頼や尊敬、感謝が蓄積されて必ず良い結果を呼びます。

最初から「もっと認められるために」「昇格するために」と結果を目的にしてしまうと、望むような評価を貰えないことに不満がでてしまいます。

結果のために今を犠牲にするのではなく、今この瞬間を充実して生きることがコツです。

人から褒められ、感謝の言葉を貰えないと自己承認欲求が満たされないと感じる人もいるでしょう。できれば、自分自身に感謝の言葉を贈れるように‘なるといいですね。

「今日はこれができた」「一日頑張ってくれてありがとう」と、自分の心と体に感謝できるようになるといいでしょう。

私は何も達成していないと思い込んでしまったら

今の自分に満足ができていないと、なかなかサントーシャ(知足)を実現することができません。

そういった時には、いったん自分自身を見直す時間が必要かもしれません。

1つの方法で、自分が若い時に描いていた未来の自分を思い出してみましょう。

「大人になったら、仕事帰りにお洒落なお店で1杯飲んで帰るとかかっこいい。」
「お金を稼げるようになったら、好きな食器を集めて家で自炊したい。友達にも振舞いたい。」
「都会のオフィスで朝テイクアウトしたコーヒーを飲みながらパソコンに向かって仕事するの大人っぽくてかっこいい。」

今の自分にとっては当たり前の日常が、実は学生時代に憧れていた姿かもしれません。

お気に入りの食器を買ったその日には、これからの自炊生活にワクワクしていたはずです。

しかし1か月もすると毎日使う食器に見飽きて、当たり前になってしまっていることがあります。

日常のふとした瞬間に、今、目の前にあるものを、どのように手に入れたのかを思い出してみましょう。

今の自分が、以前の自分の憧れをどれだけ叶えられているのかに気が付くと、「当たり前」になってしまっていた日常がとてもワクワクするものであると気が付けるかもしれません。

それを叶えることができた自分に「ありがとう」と感謝したくなるかもしれませんね。

「当たり前」と思っていることが「有り難い」ことであると気が付くのは簡単ではありません。しかし、ほんの少し目線を変えるだけで、世界はとても嬉しい奇跡であふれています。

逆に自分が与える時には当然だから有り難くないというインドの文化

マグカップを手にソファで楽しそうに談笑する二人のインド人女性
余談ですが、ヨガ発祥の国インドでは「ありがとう」は言わないという文化があります。

それは「富などを個人で独占するべきではない」「私も周りの人も一体である」と考えるインドの思想が背景にあるからです。

もしもお腹が空いたら食事を準備するというのは自然なことですが、同じ家の中に5人の家族がいたら自分の空腹を満たすのと同様に他の人も満足できる食事を一緒に食べることは当たり前のことです。

もしも家族以外のお客さんがいても同じです。

自分がしたいと思ったことを、自分以外の人とシェアすることは当たり前のこと。それを受け取る側も当然のことだと考えます。

だからインドでは「ダンニャワード(ありがとうございます)」というと、かえって嫌がられることがあります。

自分のことのように他人に親切を行うのが当たり前と考えるインド人にとって、自分の行った親切を「有り難いこと」と認識されるのは、自分と他人の距離が離れていることを意味してしまうからです。

自分が幸福になりたいから、当たり前のように周囲の人に親切にする。そのような考えも、『バガヴァッド・ギーター』の説く「ヨガとは平等の境地」という教えに繋がります。

梵我一如を分かりやすく解説 ~ヨガの教えで愛を深める~

意識を変えるだけで世界は幸せにあふれている

自分が受け取っているものに対しては「有り難い」と感謝し、自分が他者に行う親切は「当たり前」だと考える。

ほんの少し意識を変えるだけで、世界は優しさであふれていることに気が付くことができます。

「ありがとう」という言葉を口にするときにも、いつもより少しだけ「有り難いことだ」と認識しなおすだけで、喜びの気持ちが増幅します。

そして、自分への感謝も忘れないようにしましょう。

掃除の苦手だった自分が毎食食後に洗い物をするようになった。他人にとっては当たり前なそんなことでも、以前の自分からみたら当たり前じゃなかった。

それに気が付けるようになると、自分への信頼と感謝も深まってきます。

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