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インターネットが普及して、誰もが自由に自分の意見を発信できるようになりました。
世間にはより沢山の意見があることを知り、マイノリティな声も広く届くようになったのはとても良いことですね。
しかし、1つのトピックに対して賛成派と反対派で言い争いになってしまうこともあります。
どちらも悪気があるわけではありませんが、自分が信じたものを否定されると過熱して、より争いが大きくなってしまいます。
それは、ヨガのように幸福や平和を目指すものであっても同じです。偏った意見に陶酔することは、常に争いの可能性を含んでいます。
では、平和な思考とは何なのか? ヨガと同時代に発展した仏教の「中道」について考えてみましょう。
答えを断言しないブッダの教え「中道」
仏教が生まれた時代にはタパス(苦行)と呼ばれる修業が活発に行われていました。
当時のインドでは、「瞑想によってブラフマン(宇宙意識)に到達することこそが悟りだ」と断言しており、多くの修行僧たちは悟りを得られるまで過酷な断食などが行っていました。
その結果、ブラフマンに到達できずに命を落とす修行者もとても多かったそうです。
哲学界では多くの流派が「ブラフマン(宇宙意識)やアートマン(個我)は存在するのか?」と行った真理について、異なる意見を持った流派間での論争が激しく行われていました。
仏教の開祖であるゴータマ・ブッダも、最初はアートマンを知るために過酷なタパス(苦行)を行います。
しかし、なかなか悟りを得ることができませんでした。
師や兄弟子と別れて1人で瞑想を行っている時、「中道」という新しい真理を悟ります。
偏らない生き方「中道」とは
中道とは、超極端のどちらの立場にも偏らない生き方です。
出家前のブッダは、王子としてこの世の全ての快楽を手に入れることができました。しかし、それでも完全な幸福にはなれませんでした。
だから若く出家をし、あらゆる苦行に耐えました。しかし、苦行でも喜びを見つけられませんでした。
王族としての富と、極端な苦行の両方を放棄し、托鉢で村の娘から頂いた乳粥を食べて瞑想に戻った時、初めて悟りを得たのです。
そして知りました。
真理とは極端に偏った場所では見つからないのだと。
極端な快楽にも苦行にも真理がないという悟りは不苦不楽の中道といいます。
そして、世間で問われるあらゆる問題に対して、この中道の考えを発展していきます。
例えば、「宇宙は永遠なものか、永遠ではないのか?」とバラモン(司祭階級)の人たちが論争を行っていると、永遠だという派閥も、永遠でないという派閥も、双方が反論という攻撃を行い、自ら苦しみを生み出しているのだと気が付きました。
他者を否定するような考えに幸福を説くことはできないというのがブッダの考えです。
「宇宙は永遠なものか、永遠ではないのか?」という問いを投げかけられたブッダは沈黙を守りました。「アートマンはあるか?アートマンはないか?」と聞かれても、ブッダは沈黙を守ります。
答えを明言しないことこそが、ブッダの見つけた真理です。
中道と中心は違うもの
中道が良いと説かれると、「ほどほど」や中央値が正解なのだと考えがちですが、それも少し違います。
例えば、「お金持ちが良いのか、貧乏が良いのか」と問われた時に、ほどほどに稼いでみんなと同じ平均ぐらいが良いのだ、と断言することは中道ではありません。
「これが正解」だと断言してしまうことで、中間を選択しても偏った意見に固執してしまうことになります。
それでは、どのように考えればいいのでしょうか?
世間には裕福な人もいれば、経済的に恵まれない人もいるし、その中間の人もいます。
しかし、経済的な豊かさでは人の幸せは図れず、どこが1一番幸福かと議論すること自体が間違っていると考えます。
つまり中道とは、目の前の問いに対して、ジャッジすることなく、自分の固執した考えで断言することなく、あらゆる意見に対して柔軟である立場です。
偏見への固執を手放すことで得られる自由
人は、これが良いと認識すると、極端にその道を突き進みすぎてしまうことがあります。
例えば断捨離が良いと気が付くと、所有物は少なければ少ないほど正解なのだと思い込み、依存症と言えるくらい徹底してものを処分する人もいるでしょう。
ベッドまで捨てて薄手の折り畳みマットレスを購入した時には部屋が広くなって喜んでいたものも、冬に寒くて寝るのが辛いと感じれば本末転倒ですね。
「捨てたい」という欲求のために快適さを手放すのは得策ではないと思います。
もちろん、環境や個人の感覚で何が快適なのかは違います。薄い折りたたみのマットレスが快適な人にとっては、それが正解になります。
大切なのは「所有物が少ない方が正解」という考えに執着せず、いつでも柔軟な考えができることです。捨てる自由も、捨てない自由もあることも理解し、自分自身に制限を設けないことが本当の快適さではないでしょうか。
ありがたい教えにさえ固執しない
『バガヴァッド・ギーター』や『ハタヨガ・プラディーピカ』などのヨガの教典でも、教典への固執はヨガにとっての障害になると書かれています。
たとえ真実が書かれたヴェーダ聖典(インドで最も古い聖典)であっても、その教典の言葉に歓喜して固執することは良くありません。
1つの教えに執着すると言うことは、必ず排他的な考えに繋がってしまいます。
「全ての人に人に平等であれ」と説く宗教が、自分の違う宗教の人には「間違っている」と否定している矛盾は、どのような立派な教えであっても避けられません。
ヨガでは、ヨガの教えや先生(グル)の言葉を信じなさいと常に説きます。そして、信じることの大切さと同時に、教えに執着するなとも説きます。
いっけん矛盾しているように聞こえますが、ここにヨガの本質があるのかもしれません。
『ヨガ・スートラ』では、ヨガによってサマーディという境地に到達すると説きます。
サマーディという特別な体験に対して多くの人が執着心を抱いてしまいます。
しかし、ヨガで得られた特別な知恵や体験に対しても執着が無くなった時に、本当の悟りが現れると書かれています。
執着しないことは、信じないことでも努力を怠ることでもなく、どんな素晴らしいものに対しても盲目にならない心の自由なのですね。
中道でいることで日常の衝突も手放せる
中道の考え方は快適に生活するのにとても役に立ちます。
日常生活の場面で考えてみましょう。上司が無謀な指示を出して、部下がこんな指示に従いたくないという反発はどんな組織でも起こっているのではないでしょうか。
「上司が無能だから間違った指示を出すのだ」と決めつけることは簡単です。しかし、それでは争いは絶えません。
あらゆる可能性に心を開いてみましょう。相手の立場でも考えてみることが大切です。
- 今の部下のスキルでは無謀だと思える課題も、努力することで成長して超えられると上司が部下に期待している。
- 会社の経営が良くなく、社員みんなが無理をしても頑張らないと社員の生活を守れないから、大変だと分かっていても頑張って欲しいと期待している。
- 上司の上司からのプレッシャーが大きく、部下のことを考える余裕がない。
- 部下の成績が他の社員より悪く、今までの倍努力してもらわないと雇用し続けられない。
良い理由も悪い理由も考えられます。
部下側の立場でも反発する理由は様々な可能性があります。
自分と意見が合わない人がいた時に、すぐに「相手が間違っている」と決めつけていては、より良い解決策を見つけることができませんね。
意見が対立する時、ほとんどの場面では、どちらにも正しいと信じる意見があります。一方の立場では間違っていることも、当人としては善意であることが多々あります。
どちらも間違っていない、立場が違うだけだ、ということが分かると、争うことなくお互いが妥協できる良い加減を見つけることができるかもしれません。
白黒をつけずに良い塩梅を探す中道的な考え方を取り入れてみてはいかがでしょうか。