アップドッグをとるヨガの実践者のなかで一人笑顔で目線をこちらへ向ける女性

自己肯定感を高めるヨガ的思考~ドゥヴェーシャ(嫌悪)に向き合う~

みなさん、ご自分は自己肯定感が強い方だと思いますか?

自己肯定感が低く、なかなか自分を認めてあげられない人、自分を責めてしまいがちな人は、幸福を感じにくく苦しみを感じやすいですね。

何か失敗をし、理想の自分と現状を比べてしまった時、自己嫌悪を抱いてしまう人も少なくないかもしれません。

なかなか自分を認めてあげられない人は、どうして苦しんでしまうのでしょうか。ヨガ的な視点で考えてみましょう。

自分嫌いの原因はドゥヴェーシャで理解しよう

アルファベットが描かれた白いキューブを指で転がす人の手元
自己肯定感が低い人、自分に対して憤りを感じてしまいがちな人は、その心の原因を探ってみましょう。

ヨガ哲学では、「好き嫌い」をラーガ(愛着)とドゥヴェーシャ(嫌悪)という言葉で表します。

どちらも、苦悩を生み出す(クレーシャ(煩悩)として知られています。

ヨガ哲学によると、私たちは自分で勝手に「好き嫌い」を定めて、好きなものに依存し、嫌いなものに不快感を覚えますが、それこそが苦悩の原因だと説きます。

では、自分に対して嫌悪感を抱いてしまう人はどのような心理が働いているのでしょうか。

ドゥヴェーシャが苦しみを生む仕組み

ある対象に対して「生理的に無理」と感じてしまう人も多いでしょう。

例えば、害のない虫を見て「嫌い」だと思って不快感を覚える人はとても多いですが、その一方で、好奇心の強い子供は虫を見てかっこいいと思うこともあるでしょう。

同じ対象を目の前にした時、ある人は不快に感じて、ある人は高揚を感じます。

つまり、ある対象に対して「嫌い」と思う時、その対象自体が悪いものだとは言えません。自分の中に、その対象を嫌いと思う定義が存在しているから不快に感じてしまうのです。

どうして、特定の対象に対して「嫌い」という思いが生まれてしまったのでしょうか。

それは、過去の記憶によるものだと『ヨガ・スートラ』は説きます。

ドゥヴェーシャとは苦痛に伴う反発の感情である(ヨガ・スートラ2章8節)

幼い時に犬に吠えられて怖いと感じたとします。きっとその人の記憶には「犬は恐ろしいもの」という概念が大人になっても残り、可愛い小型犬であっても怖くて近づけないことがあります。

本人が体験しなくても、嫌悪感が生まれることがあります。

例えば、母親が犬嫌いで、犬に対して過剰に否定する態度を見ていたとします。子供は親の表情を敏感に感じ取るので、自分は何も怖い体験をしたことがなくても犬を怖いと記憶してしまいます。

このようにドゥヴェーシャとは、過去に感じた嫌な経験が原因だとされます。

ヨガでは輪廻転生も信じていますが、もしかしたらそのドゥヴェーシャは、前世での経験も関係しているかもしれません。先祖から受け継いでいる DNA に残った記憶もあるかもしれません。

ドゥヴェーシャは、自分自身を危険から守ってくれる本能的なものです。

しかし、必要以上にドゥヴェーシャを抱えてしまうことによって、常に緊張状態に陥ったり、人生で感じる不快さが増大してしまったりします。

不要なドゥヴェーシャを手放すのが、より快適な生活への1つの道です。

自分に対してのドゥヴェーシャに気が付こう

鏡の中の自分に向かって指をさす黄色い服を着た女性
自己肯定感が強い人と、自分に自信が持てない人には、どのような違いがあるのでしょうか。

自己肯定感が強くて自信に満ち溢れている人を観察していると、「自分は素晴らしい!」といつも思っているわけではありません。誰であれ、得意で優れている部分もあれば、苦手なこともあります。

しかし、自己肯定感が強い人は、自分自身の良い部分も悪い部分もジャッジすることなく、全て受け入れることができます。

例えば、人の名前はなかなか覚えられなくても「私って名前を覚えるのが苦手だよね」という1一つの個性として受け入れ、悩むこともなく、冷静に解決策を考えることができます。

人によっては、友人から「また忘れたの!」と指摘されても、失敗談として笑えるかもしれません。

「あばたもえくぼ」という言葉がありますが、好かれる人であれば欠点さえチャームポイントと捉えられることがあります。

幼い時に抱えたトラウマが生み出す自己嫌悪

自己評価の低い人の多くは、何らかのトラウマを抱えている人が多いです。

それによって思考が常にネガティブに向きがちで、自分を否定し、ますます悪い方向に行く行動をしがちになってしまいます。

例えば、小学生の時に太っていることを同級生に馬鹿にされた経験があるとします。クラスメイトの中で、自分だけが太っていることで存在を否定されていると感じて、心に大きなトラウマを負ってしまいます。

その人が成長した時、自分の親がどれだけ「今の健康的な体型が素敵だよ」と言ってくれても信じられず、不健康なダイエットをしてしまうかもしれません。

また、パートナーができた時に、少しでも太ってしまったら嫌われると思い込み、一緒に食事に行ってもカロリーを気にして楽しめません。

少し体重が増えただけで「自分は醜い」「これ以上食べてはいけない」とネガティブでいる人とは、一緒にいても楽しくありませんね。

その結果、息苦しさを感じてパートナーや友人が距離を置いてしまうと、「やっぱり私は肥満で見にくいままだから愛されない」と間違った考察をしてしまいます。

自分の評価の低さによって、大した事ない個性が、大きな欠点になってしまいます。

自分の評価に条件を付けるのをやめてみる

人は誰でも愛される存在でありたいと願います。
他者に愛されるだけではなく、自分でも自分を愛したいと思っています。

しかし、どうしたら愛されるのか?そこに条件を作ってしまうと、自分を認めるのが難しくなります。

  • 女性は筋肉質な人より、華奢で色が白い方が愛されやすい
  • 太っている人よりも細い人の方が美しい
  • 有名な大学出身の人はちゃんとしている
  • 30歳までに結婚して子供を産むのが正しい

このような思い込みはありませんか?

こういった考え方はどれも個人的な見解です。それを社会全体の常識だと勘違いしてしまうと、自分を型に当てはめようとしてしまいます。

特に小さいコミュニティの中で生活していると、そのコミュニティ内での常識に囚われがちです。

例えば、細い人は美しいと思う人は多いと思いますが、海外では華奢過ぎると「貧困で栄養失調で、みすぼらしく見える」と考えられる国があります。

何歳までに結婚できないと残り物だと考えている人もいるかもしれませんが、他国では男女ともに独立している方がいいから結婚はしなくても良いと考える人も多くいます。

「これに当てはまったら不幸」という思い込みを手放すことは簡単ではありません。

特に、小さい時から「こうでないとダメ」だと言われてきたものは、ドゥヴェーシャとなって、大きな不快感を生み出し続けます。

A であっても B であっても、どちらでも良い。あるがままの現状を楽しむ。それができるようになると、人生は快適になってきます。

あるがままの現状を楽しむことをヨガで学ぶ

室内で安楽座で座り両手を頭上で合わせるヨガウェアを着た女性たち
ヨガでは、世界を俯瞰してみるように説きます。そこに個人的な評価を与えることはありません。

アーサナの練習をしている時、身体が固い人もいれば柔らかい人もいます。その時に、柔軟性で良い・悪いと評価をしてはいけません。

隣の人よりも柔軟性がなかったとしても、自分なりに気持ち良い具合を見つけてアーサナを行うことで、心地よい身体の伸びと深い呼吸を感じることができます。

評価することなく、ただ現状を味わう。それが自分を受け入れるために大切です。

無理に自分の長所を探して「自分は素晴らしい」「自分は満たされている」と思い込む必要はありません。

良いのか悪いのか、その評価をし始めた時に必ず疑念が生まれてしまいます。

精一杯に”今、目の前にあるもの”を味わう。この瞬間が1番大切。

そんな風に思えると、過去の自分の作ったトラウマや、周囲の人からの評価に囚われなくなってくるのではないでしょうか。

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