青で描かれた冬の山々とタイトル

「水晶」に見る幼い兄妹が見た氷のサマディー

みなさん、こんにちは!丘紫真璃です。
今回は、オーストリアの詩人であり、作家であり、風景画家でもあるシュティフターの作品「水晶」を取り上げたいと思います。

19世紀中ごろのオーストリアの作家であるシュティフターですが、彼が生きた時代、オーストリアでは3月革命が巻き起こっていました。

フランス革命から始まった革命の波は、オーストリアにも巻き起こり、当時の世相は大変混乱していたのです。

そんな政治の混乱を目の当たりにしたシュティフターは、オーストリアの山深い村々に生きる素朴な人達に目を向け、都会がどんなに混乱しても変わらぬ暮らしを続ける村の人々を芸術作品の中に描いていきました。

どんな国でも、どんな時代でも変わらない大切な物を、彼は作品の中で描き出そうとしたのです。

そんなシュティフターが描いた「水晶」は、どんな作品なのでしょう?そして、どのようにヨガとつながっているのでしょうか?

早速、19世紀のオーストリアに飛んでいきましょう。

氷河の洞窟とイチゴ売りの兄妹

湖と山の冬景色
「水晶」の作品を描くきっかけとなったのは1845年、シュティフター夫妻がオーストリアのハルシュタットを旅行していた時のことです。

その町で雨の中を散歩している時、シュティフターは、雨に濡れたかわいらしいイチゴ売りの兄妹に出会います。

シュティフターはこの兄妹が気に入って、彼らの身の上話をあれやこれやと聞きだします。

さて、その次の日。彼は、地理学者フリードリヒ・シモニーに出会い、その人から氷河とそのなかの洞窟の話を聞き、写生の絵を見せてもらいます。

その絵をじっと見ていた彼は、こう言ったといいます。

「いま思いつきました。私はこの青い氷のドームのなかに昨日逢った子どものつれを置いてみましょう。蕾のようなその可憐さと、壮麗でものすごく、死のように冷たいこの居場所とは、なんという対象になることでしょう」
(「水晶」解説)

そうして書いた「水晶」は、オーストリアの厚い氷に閉ざされた雪山の奥深くをさまよう兄妹の姿を描いた傑作で、1度読んだら、深い感銘を覚えずにはいられません。

雪山をさまよう幼い兄妹

吹雪の山景色
「水晶」の舞台は、オーストリアのシュタイトという山のふもとにある小さな村で、クリスマスの前日の物語です。

日本でクリスマスといえば、子ども達の元へサンタクロースがプレゼントを届けに来てくれる日ですが、オーストリアではサンタクロースではなく、聖なる幼児キリストが、子ども達にプレゼントを贈ってくれることになっています。

その晴れがましいクリスマスの前日。幼い兄妹のコンラッドとザンナは、山の向こうの村に住んでいる祖父母に会うために山道を超えていきました。

帰り道のこと、幼い兄妹が山道を歩いていると、雪が降ってきました。

はじめはヒラヒラと舞い落ちる程度だった雪ですが、だんだん、激しく降り出しました。

うしろに残る足跡は、いまはもうながくはそのままになっていない。異常なまでにおびただしく降る雪が、すぐさまそれを消してしまうのである。
(「水晶」)

目をこらしても目が痛くなるような眩しい白が見えるばかりで、辺りの景色が全然見えません。

2人は帰り道を探す手がかりを探るため、耳をすませます。ひょっとしたら、犬の吠え声か、鐘か、水車のまわる音が聞こえるかもしれないと思ったのです。

けれども、ほんのかすかな音さえ聞こえてきません。自分達のまつげに雪がふりかかる音さえ聞こえるような気がするくらい、辺りは静まり返っていたのです。

おびただしい雪が降りしきる静寂の世界に2人きりで取り残されたコンラッドとザンナは、村へ帰る道を探し当てたいとやみくもに前進を続けます。

しかし、歩いても、歩いても、雪と静寂が続くばかり。クシャイトの村へと下る道を探したい2人ですが、どんなに歩いても道は上っていくばかりなのです。

「3歩離れた先はもう見ることができなかった。いっさいは、そういってよければ、ただべた一面の白い闇に包まれていた。そして影というものがないので、物の大きさを判断することができない。子どもたちは、急傾斜が2人の足をとらえて、いやおうなく、そこを上らせるまでは、これから上りになるのか、下りになるのかさえ知ることができなかった。
(「水晶」)

3歩先も見えない真っ白な静寂の世界をひたすら突き進んでいく2人は、知らない間に、どんどん上へ上へと登ってしまい、しまいには巨大な氷の塊にぶつかります。

巨大な氷の洞窟がそびえていたその場所は、山のてっぺんでした。

目の前が見えない真っ白な静寂の世界をひたすら突き進んでいくうちに、幼い2人は1年中氷が張っている山のてっぺんの氷河にまで来てしまったのです。

氷の中を迷っているうちに、辺りは真っ暗になってしまいました。

とうとう、2人は家へ帰るのをあきらめ、氷河の中の巨大な岩の下にもぐりこみ、一夜を明かすことになります。

幼い兄妹が目にしたもの

星空の写真
幼い兄妹が氷河の岩の下でピタリと寄り添って、数知れぬ星を見上げているうちに、真夜中になりました。

ふもとの村では、クリスマスを告げ知らせる鐘がいっせいに鳴り響きますが、山の頂上の氷河の中に閉じ込められている幼い兄妹のところには、何の音も聞こえてきません。

しかし、その時、氷が避ける身の毛のよだつような音響が鳴り響き、空に不思議なことが起こります。

眼にもまた、異様なことが見えはじめた。子どもたちが、そういうふうに空を見あげて坐っていると、星の群のただなかに、ぽっとうすい光がひろがりはじめて、それが星から星にかけて、ゆるい弓形をはりわたした。それは緑色にひかって、ゆるやかに下の方へのびていた。いまその光は刻一刻力をました。そしてついには星々もそのために光をうばわれ色をうすめてきた。そればかりか天空の右へ左へ、その弓形は光を投げた。それは緑にかがやき、しずかに、しかも生き生きと、星のあいだを縫って流れた。と見ると、弓形の頂点に、種々な度合でひかっている光の束の群が、王冠の上べりの波形のように立ちのぼって、燃えた。
(「水晶」)

そうした天体ショーを仰ぎ見、祖母がくれたパンを分け合い、祖母がお土産に持たせてくれた濃いコーヒーを飲んで、襲ってくる眠気と必死で戦っている間に、とうとう夜が明けます。

幼い兄妹が見たサマディー

オーロラと冬の山
翌日、幼い兄妹はいろいろな苦労をした末、とうとう捜索隊に発見してもらい、無事に家に帰ります。

その夜、幼いザンナは母にこう言います。

「お母さん、ゆうべ、お山にすわっていたとき、わたしキリストさまを見たの」
(「水晶」)

シュティフターは、雪山の大冒険の中で、コンラッドとザンナがキリストさまに会ったという描写は少しもしていません。

限りなく冷たく、限りなく青い、水晶のように美しい氷河の夜空を流れたオーロラを、身震いするほど美しく描き出してみせたばかりです。

ザンナがキリストさまと言ったのは、オーロラのことだったのでしょう。

幼い兄妹が迷いこんだ水晶のように美しい氷河の世界は、ふもとの音が聞こえない静寂の世界であり、死と隣り合わせの世界でもありました。

その中で、幼いザンナは、夜空のオーロラの中に神を見たのです。

それは、すでにキリスト教的な意味を超えた、もっと広い意味の神だったと言えるでしょう。

夜空にかかる満天の星、白い雪、青い氷の洞窟。

静寂に包まれた聖なる世界の中で、幼い兄妹はまるでヨギーが瞑想する時のように、神を見たのです。

そう。まるで、ヨギーが瞑想の極致に達して、サマディーを見た時のように。

そして、私達も「水晶」を読めば、2人の子ども達と一緒に雪の中をさまよい、一緒にオーロラを見て、神を感じることができるのです。

シュティフターが筆をふるって描きだす、限りなく冷たく、限りなく恐ろしい雪と美しい氷河の世界。

そこをさまよう健気な兄妹の姿には、誰でも深い感銘を受けずにはいられません。

コロナ禍以降、1人で静かにクリスマスを迎えるという方が増えているのではないでしょうか。そんなクリスマスに「水晶」を開いてみてはいかがでしょう。

胸にしみいる美しい物語に心洗われることをお約束致します。

シュティフター著 『水晶 他三篇』訳 手塚富雄・藤村宏 岩波書店(1993年)