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何となくサマーディはヨガのゴールであり、悟りの境地というイメージがある人も多いと思いますが、具体的に説明することは難しいと思います。もしくは、とても遠いもののように感じるかもしれません。
実はヨガには、様々なサマーディの類義語があります。その中には、経験した事がある状態が見つかるかもしれません。
ヨガで到達できるサマーディがどのようなものなのかをハタヨガの教えを元にひも解いてみましょう。
ハタヨガ教典に書かれたサマーディの類義語
ハタヨガの経典である『ハタヨガ・プラディーピカ』ーの第4章は、サマーディの状態について説かれた章です。
ところで、ハタヨガ・プラディーピカでは、ヨガで到達できる高次の精神的な境地のことを様々な言葉で呼びます。違う表現をしていても、それらは同じ状態であるそうです。
ラージャ・ヨガ、サマーディ、ウンマニー、マノーンマニー、アマラ、ラヤ、シューニャーシューニャ、パランパダム、アマスカ、アドヴァイタ、ニラーランバ、ニランジャナ、ジーヴァンムクティ、サハジャ、トゥリヤー、これらは同義語である。(ハタヨガ・プラディーピカ4章3-4節)
一覧で書かれていますが、何となく聞いたことがある言葉も、全く分からない言葉も混ざっているともいます。
これらの意味を理解すると、サマーディの状態がどのようなものなのかを理解するヒントになります。
1つずつ見ていきましょう。
ラージャ・ヨガ
ラージャとは王様という意味があります。
10世紀頃から栄えたハタヨガの流派の人たちにとってヨガの王様とは、当時から見ても古典ヨガと呼べるヨガ・スートラのヨガを指しています。
ヨガ・スートラは瞑想を行うヨガであり。瞑想状態に留まることをラージャ・ヨガと呼びます。
サマーディ
サマーディはラージャ・ヨガの経典ヨガ・スートラに出てくる8支則の最終段階です。
ヨガ・スートラではサマーディを自我忘却の状態だと説きます。
ヨガ・スートラではサマーディを最終ゴールとはせず、サマーディにもいくつかの段階があると説きます。
ヨガ・スートラのサマーディは別の記事でご紹介しています。
ウンマニー
ウンマニーは忘我の状態や、失神状態です。思考を超越した状態でもあります。
特に深いプラーナーヤーマなどで意識がなくなった時ににウンマニー状態に入ると言います。
マノーンマニー
マノーンマニーはウンマニーと同様の言葉で、意識を喪失した状態を意味します。
思考や感覚器官の働きが静止して意識が消える状態です。
アマラ
「マラ」には死という意味があり、頭に否定形の「ア」を付けることで不死という意味になります。
ブラフマン(宇宙原理)やプルシャ(真我)の状態になり、永遠と不変である精神世界に到達したことを意味します。
ラヤ
ラヤには溶けるといった意味があり、ヨガの修行で意識が溶け込んでいって消滅することです。
心の働きが死滅した状態です。
シューニャーシューニャ
「シューニャ」とは「空」を意味します。
シューニャと、シューニャの否定形であるアシューニャを繋げた言葉がシューニャーシューニャです。
心の中には何もないけれども、真我が残るので「無」でもない「空」の状態です。
パランパダム
パランパダムには最高の境地、卓越した状態、最終的な思考の状態という意味があります。
アマスカ
アマスカは無知覚という意味があります。感覚器官と思考と共に働きが止まり、知覚しない状態です。
欲望や思考から解放されます。
アドヴァイタ
アドヴァイタとはヴェーダンタ哲学的な言葉で、「不二元」という意味です。
ヨガ・スートラはサーンキャ・ヨガとも呼ばれますが、サーンキャ・ヨガは二元論という哲学を信じ、世界を2つの元素から発生したものだと考えます。
それに反して、ヴェーダンタ哲学や、そこから派生した現代のヒンドゥー教では、世界はたった1一つのブラフマン(宇宙原理)であると説きます。
2つはない、たった1つだと悟ることは、ハタヨガがヴェーダンタ的な哲学の影響を受けていることを表しています。
ニラーランバ
ニラーランバとは自由な、独立した、真我独存という意味です。
私たちがヨガで探し求める本当の自分の本質の部分をアートマン(個我)やプルシャ(真我)と呼びます。しかし、人間として生まれた私たちは、物質的な元素であるプラクリティの作り出す世界に惑わされ、本当の自分を知ることができません。
ニラーランバとは、本当の自分に気が付いて、物質世界から解放された状態です。
ニランジャナ
ニランジャナとは純粋で穢れのない状態を意味します。
完全に純粋であり、不純性を含まない状態をサットヴァと呼び、私たちの心と体のサットヴァ性を高めることで、視界が明るくなり、私たちは世界の真実を知ることができます。
ジーヴァンムクティ
ジーヴァとは生命を意味し、ムクティは解脱を意味します。ジーヴァンムクティとは、人間として生きながら解脱した状態(モークシャ)です。
ヨガで悟りを得ることによって、私たちの精神は物質世界に囚われなくなります。
しかし、肉体には寿命が決まっているので、悟りに到達しても決められた時まで生命活動は続きます。
サハジャ
サハジャとは、生まれ持った自然な状態を意味します。
本来の状態とは、アートマン(個我)やプルシャ(真我)が独立して、自身への気づきに満ちている状態です。
ヨガだけでなく、チベット仏教でも悟りを意味する言葉として使われます。
トゥリヤー
トゥリヤーとは「4番目の」という意味があります。
マンドゥカ・ウパニシャッドによると、聖音オームには3つの状態が含まれます。
- 起きている状態
- 夢を見る眠りの状態
- 夢を見ない眠りの状態。
そこにプラスして、第4番目の状態は、あらゆる活動が静止した完全な寂静の状態ですが、永遠の平穏と幸福に満ちている状態です。
ハタヨガ教典が説明するサマーディの状態
ヨガ・スートラでは自我意識が消失した状態をサマーディと呼びます。
瞑想対象のみが輝いて現れ、あたかも瞑想者の自己意識を消失した境地がサマディサマーディである。(ヨガ・スートラ3章3節)
それに対してハタヨガは、ヨガ・スートラだけでなく古代のヴェーダ教典、ヴェーダンタ哲学、タントラなど様々な教えの影響を受けているため、サマーディの説明もバリエーションに富んだ表現で説明してくれます。
自分自身がヨガを練習していて感じる感覚に近いものもあるかもしれません。
塩が水に溶け込んで一体となるように、アートマン(個我)とマナス(心)が一体となることをサマーディと呼ぶ。(ハタヨガ・プラディーピカ4章5節)
悟りの状態を水に溶ける塩で例えるのは、ヴェーダンタ哲学的な表現です。
これは、アートマン(個人)がブラフマン(宇宙意識)に溶け込んで一体となることを意味しています。
エゴ(自我意識)を手放すことで、世界の全てへの愛が生まれ、その尊さに気が付くことができます。
プラーナが痩せ(弱まり)、心の働きが治まり、それらが合一すると、それをサマーディと呼ぶ。(ハタヨガ・プラディーピカ4章6節)
これはハタヨガ・プラディーピカの第2章2節目の言葉と類似しています。
ヨガ・スートラでは、下記の通り定義します。
ヨガとは心の働きを死滅すること(1章2節)
しかし、ハタヨガでは心とプラーナ(気)の関係を注視し、プラーナーヤーマ(調気法)によって気の動きを断つことでサマーディに到達すると説きます。
このようにジーヴァ・アートマンとパラマ・アートマンが合一し、全てのサンカルパ(観念)が消滅すると、サマーディと呼ばれる。(ハタヨガ・プラディーピカ4章7節)
この定義もヴェーダンタ哲学的な表現です。
ジーヴァ・アートマンとは生命を持った古我、1人の人間としての私です。
パラマ・アートマンは最高の存在である宇宙意識ブラフマン。それが一体となり、あらゆる思考が消えていった状態がサマーディだと説きます。
自分のヨガの練習でサマーディを感じよう
今回は様々なサマーディの類義語と定義をご紹介しました。
ヨガは実践によって答えを探すものです。長いヨガの歴史の中で、先人が感じた感覚によって、様々な表現が使われていたことが分かると思います。
1一つの定義を聞いただけでは分からなくても、いろんな言葉で聞くと、ピンとくるものがあるかもしれません。
瞑想をしている時、最後のシャバアーサナ(屍のポーズ)の時、自分の感覚を観察してみてください。