ヨガの練習をしていると「一体感」を感じることがあると思います。
周囲と自分が1つになっていくような感覚は古代からヨガを実践している聖人たちがあらゆる言葉で説明しています。
今回は古典の教典の言葉から、ヨガで感じる一体感について考えてみましょう。
塩が水に溶け込むような感覚を感じてみよう
『チャーンドギャ・ウパニシャッド』というとても古い教典に、ヨガで感じる一体感を説明した話が載っています。
「一塊の塩を水の中に投げ込んで明日私のところに持っておいで。」
息子が翌日塩を入れた水を持ってきました。そしてウッダーラカは言いました。
「昨晩お前が水の中に投げ込んだ塩を取り出しておいで。」
しかし、息子は水の中の塩を見つけることができません。
ウッダーラカは言いました。
「それでは、端から水を少しくんで飲んでみなさい。」
息子は答えました。
「塩辛いです。」
「次に中央から水を少しくんで飲んでみなさい。」
「塩辛いです。」
「向こうの端から水を少しくんで飲んでみなさい。」
「塩辛いです。」
そうして父親は言いました。
「サット(真実)の存在はとても微細で認知することができない。しかし、サットはここに存在するのだ。」
このウパニシャッドで説明されているサット(真実)とは、真実の自分であるアートマン(個我)のことを意味しています。
ヨガでは必ず本当の自分を見つけて体感するようなアプローチを行います。それは、アーサナ(体位)といった練習でも同じです。
アーサナを行っていると、身体と心が浄化され、サット(真実)に気が付きやすくなります。
感覚がとても敏感になっている時にどのように感じますか?
あなたは自分自身を心臓の奥深くに感じることができるかもしれません。または、呼吸をしているエネルギーの流れに感じることもあるでしょう。
エネルギーが滞りなく流れていくと、指先にも、足の爪先にも自分自身が行き渡っている実感を得ることができます。瞼(まぶた)の奥の暗闇にも存在します。
私はこの身体全体に行き渡っていて、それは実態がなくて目に見ることができないけれどサット(真実)であり存在している。
ヨガで感じる本当の自分とはそのような体感です。
言葉で説明すると、水に溶けた塩とよく似ていることでしょう。水に溶けたら目に見えなくなってしまったけれど、全体に行き渡って、満たされているものです。
ハタヨガの説くサマーディ(三昧)
このウパニシャッドに書かれた塩が水に溶けた状態の例えは、ヨガの実践によって体感しやすいものでもあり昔から頻繁に引用されてきました。
ハタヨガの教典の中でも、サマーディ(三昧)が何かを説明する1節で使われています。
塩が水に溶け込んで一体となるように、アートマン(真我)とマナス(意)とが合一した状態を三昧という。(ハタヨガ・プラディーピカ4章5節)
日常の私たちは、全てをマナス(心)で認識しようとします。
自分とは誰かを理解するためにも思考を使って理解しようとします。思考は目に見えるものによって作られています。
自分の身体や、実績、名前、役職、成績や思考的主義など、物質的で変化し続けるものからしか自分が誰かを判断を行うことができません。
ヨガでは、感覚器官や思考に頼らなくても本当の自分を見出すために、色眼鏡を取り除いていきます。
思考という色眼鏡を外した結果、感じることができた本当の自分、つまりアートマンは、頭の頂点から足の爪先まで行き渡っていることを感じます。
それは物質的な身体だけでなく、マナス(意)といった心の働きの中にも存在します。
そのような、本当の自分を感じることができた時、それをハタヨガではサマーディ(三昧)と呼びます。
自分自身が世界に溶け込んでいく感覚
このサット(真実)である自分は、「私」という1人の人間の枠に留まるものではありません。
ヨガの練習をしていても、最初は自分自身の身体の隅々までを観察して繋いでいく経験をしていきますが、感覚が高まっていくともう少し外の世界との一体感を感じられるようになってくるのではないでしょうか。
アーサナで身体を使っている途中では感じにくいかもしれません。
しかし、最後のシャバーサナ(屍のポーズ)の時には、もう少し意識が内側の自分に向くので、本当の自分であるアートマンを感じやすくなってきます。
例えば、部屋の外で鳥などの声が聞こえれば、その鳥との繋がりや生命の温かさを感じるかもしれません。BGMで海などの音が流れていれば、水の音の中に自分が沈み込んでいく感覚がある場合もあるでしょう。
パークヨガなどを行っている時には、そのまま大きな大地と一体となっていく感覚を体験する人もいます。
私個人と思っていた自分はこの身体という枠の中にはめられていますが、ヨガでアートマンという本当の自分を体感すると身体という枠に制限されなくなります。
すると私はこの自然の中に満ちていて、自分と外の区別はないのだという気づきを得ることができます。
私も宇宙全体も一体なのだという考え方をヨガ哲学の言葉では一元論と呼びます。
ジーヴァ・アートマン(個人的真我)とパラマ・アートマン(宇宙的真我)の両者が金一となり、さらに合一した状態、従って全ての想念が消え去った状態が三昧である。(ハタヨガ・プラディーピカ4章7節)
最初は個人としての自分が世界に溶け込んでいくような感覚を得ることができるでしょう。
さらにヨガが深まっていくと、自分の外だと思っていた世界全体が自分と一体なのだという感覚が養われていきます。
つまり、今までは自分とは別物だと思っていた世界の全てが「自分そのもの」だという認識です。
その状態はパラマ・アートマン(宇宙的な真我)に到達した状態です。
自分と自分以外という概念は完全に消えていきます。
周囲の人たち、人間以外の動物や植物、自然界のあらゆるものと一体となる感覚があると、エゴによるあらゆる衝突が無くなっていきます。
ヨガは自分と向き合うツールですが、それによって自分以外とも繋がることができるのですね。
エゴが弱まる体験を積み上げていこう
ここまでに書いたような体感は、ヨガをすると誰でも感じられるようなものです。
最初は、水に溶けた塩のように、自分自身が溶けていき、どこまでも染みわたっていくような感覚を感じるかもしれません。
それはヨガや瞑想を行っているときだけの経験ではありません。
例えば、好きな音楽を聴くことに没頭しているとき、その音と一体となって完全に自我を忘れている瞬間があるかもしれません。登山をしながら、大自然の一部であることを感じる人もいるでしょう。お風呂に浸かりながら、完全にお湯と一体になって至福の一時を感じることもありますね。
そのような時には、思考は完全に止まっています。意識だけが明確に存在し、心の働きは姿を消してしまいます。
いつでも、本当の幸福を感じられる瞬間は、思考が弱まってエゴが弱まっています。
ヨガを練習しているとき、それ以外の日常、両方の時間で感じた感覚を大切にして、自分自身の本来の姿に向き合ってみてはいかがでしょうか。