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今回はどっぷりとディープなヨガ哲学の本質部分に触れていこうと思います。
ヨガ哲学を学んだ人、悟りとは何か?と考えた多くの人が抱く疑問があります。
「悟りを開いて物質世界から解放されても人生が続くのはなぜ?」
ヨガの悟りが物質世界からの解放であるのなら、悟りを得た後になにがあるのか?は、必ず気になりますよね。今回は、そんなディープな質問について深掘りしたいと思います。
悟りを開いても物質世界は無くならない
結論から言うと、たとえサマディに到達して悟りを開いたとしても、私たちが見ている世界は何も変わりません。
瞑想を行なっているその瞬間には、今まで見ていた物質世界から完全に解放され、全く新しい世界を体験することができますが、瞑想をやめて目を開けると以前と同じ世界が広がっています。
成就した人にとって(見られるもの・物質世界は)消滅するが、それは他の人と共通性のものなので消滅しない。(ヨガ・スートラ2章22節)
ヨガを実践し、真実の自分に出会った人にとって、物質世界は不要なものになります。本来私たちにとって最も大切なものは本当の自分であるプルシャの状態に戻ることであり、それが達成された時には物質世界に戻る必要がないからです。
しかし、悟った人にとっては不要となった物質世界も、まだ悟りを得ていない人にとっては現実世界です。
この物質世界は、自分一人が作り出したものではなく、万人と共通して見ている世界です。そのため、まだ本質を知らない人がいる限りは、消滅することなく存在し続けます。
この文章を理解するためには、プルシャ(真我)とプラクリティ(物質の根本原理)を理解する必要があります。
物質世界が存在するのはプルシャ(本当の自分)のため
ヨガ・スートラの中では、プルシャ(真我)とプラクリティ(物質の根本原理)を、それぞれ「見るもの」と「見られるもの」という表現で説明します。
まずは「見るもの」と「見られるもの」の関係から見ていきましょう。
- 見るもの:プルシャ、真我、本当の自分、認識のみからなるもの。霊魂。
- 見られるもの:プラクリティ、物質の根本原理、物質世界のあらゆるものを作り出す。
ヨガ哲学では、世界は「見るもの」であるプルシャと「見られるもの」であるプラクリティの2つによって作り出されていると考えます。
プルシャは、ヨガ哲学で考える「本当の私」です。それは自分の体や心を超越したものであり、見たり聞いたり考えるといった活動を行いません。プルシャは「認識する」「傍観する」という機能のみがあります。
それに対してプラクリティは、私たちが日常で見て感じているもの全てです。全ての形あるものはプラクリティから展開したものです。プラクリティにはサットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)という3つの要素が含まれています。これは、科学の原子記号のようなものです。
プルシャは自分を認識できない
プルシャ(真我・霊魂)自体は自ら行動することができません。
例えば、目の前に美味しそうなケーキがあるとしましょう。
まず、そのケーキを認識する感覚器官である目はプラクリティです。認識した後、「美味しそう、これを食べたい」と認識する心もプラクリティから生まれたマナス(意)であり、実際にフォークを持って口に運ぶ手、味を感じる舌、「美味しいものが食べれて幸せ〜」と感じるもの、全てプラクリティの働きです。
ではその時にプルシャが何をしているのかと言うと、「傍観」です。ただ、一連の流れを観察しています。
プルシャとプラクリティの関係を映画に例えることができます。
面白い映画を見ている時には、映画の主人公に感情移入してしまうことがあります。すると、自分が映画の中のヒロインになった気分になり、素敵な人と恋に落ちて、失恋をして、涙をこぼたり、それでも乗り越えて成功を収めた時、とても大きな達成感を感じます。
しかし、映画が終わってスクリーンが真っ暗になると気がつきます。
「私はヒロインではなったし、失恋もしていないのに、涙をこぼして号泣していた。」
映画の中のヒロインの人生がとてもドラマティックで刺激的であるほど、映画に没頭して感情移入をしてしまいますね。
同じように、自ら行為を生み出さないプルシャ(真我)は、プラクリティ(物質根本原理)の生み出す刺激的な世界に感情移入して、自分自身の本来の姿を忘れがちです。
だからヨガでは、わざとプラクリティの働きを制御します。安定した座法で体を動かさず、呼吸の流れも穏やかにし、心の働きを制御します。プラクリティが静まると、映画のスクリーンが真っ暗になった時のように、自分自身を思い出すことができます。
プラクリティ(物質世界)が動くのはプルシャ(真我)のため
世界の全てを作り出しているプラクリティ(物質の根本原理)ですが、プラクリティのみで存在することはありません。
それ(見るもの)のためにのみ見られるものは存在する。(ヨガ・スートラ2章21節)
霊魂であるプルシャがなければ、器である身体は不要のものとなります。
つまり、プラクリティは、川を渡るための舟のようなものです。船は人を向こう岸に届けるために存在します。人がいなければ舟(プラクリティ)働く必要はありません。
では、プラクリティによって生まれた舟はどこに到達しようとしているのでしょうか。それは、プルシャそのものです。
プルシャ(真我)は光り輝く完全な存在です。しかし、自分自身に感じて考える機能がないため、自分自身の輝きに気がつくことができません。だからこそ、プルシャと一体になり、身体において行動し、感じて、思考して、自分自身を探します。
世界から解放されたジーヴァンムクタ
生きたまま解脱した人のことをジーヴァンムクタ(生前解脱者)と呼びます。
本来、その人がプルシャ(真我)に到達した時にはプラクリティ(物質根本原理)は存在する必要がなくなるため、消滅してもいいはずなのですが、そうはなりません。
成就した人にとって(見られるもの・物質世界は)消滅するが、それは他の人と共通性のものなので消滅しない。(ヨガ・スートラ2章22節)
冒頭で引用した通り、プラクリティが作り出す物質世界は、自分一人のものではなく、多くの人が共有している世界です。私の体も、多くの人が共通して認識しているものです。そのため、自分一人が悟っても、突然消えることはありません。
しかし、悟った人にとっては無価値なものとなります。ジーヴァンムクタ(生前解脱者)の意識は本当の自分であるプルシャ(真我)に結び付けられていますが、身体は寿命をまっとうするまで生命活動を続けます。当然身体は老いたり病気になりますが、それは私を苦しめるものではなくなります。
ヨガで感じられるプチ悟りの境地
今回は、ヨガで悟った後のディープな世界についてご説明しました。
物質世界に全く興味がなくなると言われると、全くピンとこない人も多いのではないでしょうか。
しかし、私たちは日常からプチ悟り体験をたくさんしています。例えば、ヨガのシャバアーサナをしている時、頭の中が真っ白になって、他のことはどうでもいいと感じられることがあると思います。この瞬間の自分に関係ない物事のことを、完全に忘れられる瞬間です。
その時、あらゆる不安が消えて、とても心地よい感覚があるのではないでしょうか。
悟ったからと言って、急に世界と無関係になるわけではありません。しかし、本当の自分と、物質世界の分別が分かるようになります。あらゆる固執がなくなった時、同じ世界も、全く違う色に見えるかもしれません。