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私はどうしたら幸せになれるのだろう?
これは万人にとっての大きな課題ですが、ヨガ哲学でも幸福というのは最も大きなテーマの1つです。
周囲から尊敬されていて社会的な立場が高い人が必ず幸せな人生を送っているとは限りません。反対に、お金がなくて誰にも知られていない人が楽しい人生を送っていることもあります。
自分自身が幸福かどうかは主観的幸福感(subjective well-being)で測る事ができます。
何が私を幸福にしてくれるのか、それを知ることはとても大切です。
客観的幸福よりも主観的幸福を大事にする
幸福の条件はなんだと思いますか?
または、何を得たら自分は幸福になれると考えることができますか?
幸せかどうかの判断基準で、他人から見た幸福と、本人が感じている幸福が違うことは多々あります。
他の人から見て幸福かどうかの判断基準になるものは、収入の高さ、安定した職業、社会的地位、優れた容姿などが考えられると思います。
そのため私たちは、今よりもお金が欲しいと思うし、人から尊敬される職業、整った容姿を手にしたいと、あらゆる努力を惜しみません。
では、本当に今よりも収入が高くなったら幸せを感じられるのでしょうか。
現実では一般の人よりも所得が高くて容姿に優れた著名人が自ら命を絶ってしまうこともありますし、占いやスピリチュアルなものに極端に傾倒してしまうこともあります。
私たちは「これがあれば幸せに違いない」と様々な条件を考えますが、実際はそんなに簡単なものではありません。
豊かさが幸福の条件じゃない
GDP の数値が3位と言われる日本ですが、国連か発表する2018年世 界幸福度ランキンク(2018年)において、日本は54位ととても低位です。
衣食住の安定、経済的な豊かさで考えれば、日本は今でも恵まれた国であるはずですが、日本人の多くが「自分は幸福だ」と感じられないのは不思議なことです。
これには様々な要因が考えられます。その1つに文化的に日本人は謙虚さを求められるからという側面もあるかもしれません。
例えば、パートナーに満足していたとしても、「私の妻は、夫は素晴らしい」と公に言うことは恥ずかしいと思ってしまう人もいるのでしょうか。
ヨガの生まれたインドでは、自分の家族のことを褒める人がとても多く、「私の妻は素晴らしい」と話す人がとても多いです。
他者から褒められた時にも、「そうなんだ、妻はとてもこだわって料理していて最高だよ」と堂々と話します。
日本人の謙遜という文化は奥ゆかしくて素晴らしいものですが、謙遜のつもりが自分自身や家族を否定しているように話してしまうと、もったいないですね。
また、数字を追っていても苦しくなりがちです。
たとえ収入が平均よりも高くなったとしても「税金が高く、支出も多いから全く余裕がない」と感じたり、「休みが少ない」「子供の学校が進学校ではない」と感じたりすると、次々と不満が見つかり、どこまで行っても幸せを感じにくいです。
客観的な幸福を求めると、どこか隙があっては駄目だと感じてしまいがちです。
また、幸福の条件を1つクリアしても、他の条件が足りていなければ幸せだと認められません。
幸せの自分ルールを見つける
では、幸せを感じられる人はどのような人なのでしょうか。
世界中で多くの研究者が幸福の条件を研究していますが、これを定義づけることはとても難しいです。
国や文化によって若干の傾向は導き出すことができます。
例えば、東洋では社会的な協調や繋がりによって幸福感を得やすいのに対し、西洋では個人としての成功に幸福を感じやすい傾向があります。性別や年齢によっても幸福を感じやすい要因の傾向が違います。
インターネット社会では、どうしても発信力のある人の価値観に左右されがちですが、他人と自分の幸福の条件は違うのだと理解したいですね。
「一般的にどうか」ではなく、自分が幸せと感じられるかの方が大切です。
主観的幸福感を感じるヨガ的思考4選
それでは、人の評価に惑わされずに、主観的幸福感を高めるヨガ的な考え方をご紹介します。
今日はヨガの教えから4つをご紹介します。
結果への執着を手放す
1つ目は、結果への執着を弱めることです。
常に成功や失敗という結果に執着している人は、心が常に囚われていて幸福を感じにくいです。
何であれ得たものに満足し、妬みや、苦楽といった双極のものから解放され、成功と失敗を同等と見る人は、行為の結果に束縛されない。(バガヴァッド・ギーター4章22節)
例えば受験勉強がそうです。自分の子供が受験となると、自分のこと以上に必死なお母さんも多いです。
なんとしても合格しないといけないと感じ、模擬試験のたびに心臓が止まるような思いで結果を待ち、合格できないと人生が終わってしまうような思いをされている方はとても多いと思います。
目標に向けて精一杯の努力をすることは素晴らしいことです。
しかし、それが全てになると、思春期の大切な時間に、親子関係がうまく築けなくなってしまいます。
たとえ志望した学校に行けなくても、そこまでの努力は失われません。
結果ではなく、自分の行ってきたことに満足できるようになりたいですね。
誰に対しても平等
私たちは、敵と味方を無意識に決めがちです。
わざわざ「この人は敵だ、安心できない人だ」と自ら決めると、それだけ緊張状態を維持しなくては行けなくなり生きづらさにも繋がります。
親しい人、友人、敵、公平な人、仲介者、執着のある人、縁のある人、または善人と悪人に対して平等に考える人は優れている。(6章9節)
立場的に、利益相反の関係になってしまうこともあるでしょう。
例えば、行きたい学校の定員が300人なら、同じ学校に行きたい同級生は少ない席を競うライバルであり、敵です。
しかし、たまたま今この瞬間同じ席を目指しているだけの相手であり、相手が悪だということにはなりませんよね。
資本主義社会では、誰かの成功が誰かの失敗に繋がることが多々あります。そのため、自分の利益と相反してしまう相手のことを「悪」「敵」だと感じてしまうこともあるでしょう。
その意識が高まるほど、世界には敵が増えて、どこを歩いていても安心できなくなってしまいます。
実際には、完全な善もなければ、完全な悪もありません。それは自分自身も同じです。
自分にとって友人であっても、ライバルであっても、もしくは全く関係性のない人であっても、誰もが同じように一生懸命人生を歩んでいます。
今飲んでいるコーヒーの生産国の人たちも、私とは全く関係がないようで、実は繋がっていて同じです。
誰に対しても平等に捉えられると、世界にも敵も味方もないのだと感じられ、不安感が弱まってきます。
快楽ではなく、人生の喜びを見つける
感覚器官で感じられる喜びは一時的なものであり、執着心を生み、本当の幸福を遠ざけてしまうものです。
感覚器官の対象から生まれる快楽は、俗世的な人にとっては幸福に見えるが、惨めさを生むものである。クンティの息子(アルジュナ)よ、賢者はそのような始まりと終わりのある快楽には喜ばないものである。(バガヴァッド・ギーター5章22節)
とても奇抜で魅力的なデザインのブランド製品、高級なレストランの食事とお酒、自尊心を刺激してくれる耳触りのいい言葉。
それらはお金で買える快楽ですが、一瞬の喜びが覚めた時に虚しさが現れます。
その虚しさ、惨めさを埋めるために、さらにお金を積んで快楽を求めがちで、依存を招きます。
一方で本当の幸福には派手さがありません。
公園で鳥のさえずりを聞きながら休憩している時、はしゃいでいる子供の姿を見る時、丁寧に淹れたコーヒーをパートナーと飲んでいる時、好きな仕事に没頭している時、そのような幸福は失われません。
自分自身と向き合い知足を学ぶ
ヨガの教えであるサントーシャ(知足)は、すでに与えられている幸福に気が付くことです。
私たち人間は、「有る」ものよりも「無い」ものに意識が向きがちです。
もっと多く手に入れたいと願う向上心によって文明は発展してきましたが、常に無いものを求め続けていると永遠と満足は手に入りません。
無いものねだりに囚われないためには、すでにあるものに意識を向ける、マインドフルな状態が最適です。
ヨガの時間は、外への意識を遮断して「今、ここ」に意識を向けていくので、サントーシャ(知足)を体感するために最適な練習です。
何も変わっていないのに、身体が自由に動いて心地よい、深い呼吸が心地よい、周囲の人を感じられて幸せ、そんな幸福感を実感できると、「自分の人生は足りないものばかり」という不安感が弱まっていきます。
周囲に惑わされない主観的幸福感を探そう
まずは、自分にとって何が幸せの条件なのかを考えるところから始めましょう。
自分自身のことが分かっていないと、周囲の人やマスメディアの価値観でしか自分の人生を評価できなくなってしまいます。
「こうなれば幸せ」という思い込みの条件を一旦手放して、自分の感覚に耳を傾けると、本当に自分が幸せだと感じられる瞬間を見つけられると思います。