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どうして世界は平和であり続けることができないのだろう、と誰でも考えると思います。
人類は進化し続けて賢くなったはずだし、豊かになっているはずです。
それであっても世界中で戦争は途絶えないし、日本国内だけ見ても沢山の争いがあります。
より幸福になるために努力して、知的になったとしても同じです。
ずっと平和でいることはとても難しいことです。
こんな悩みについて、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは答えています。
世界はサットヴァ(純質)にとどまることができない
まずは簡単に3つの性質についてご説明します。
3つのグナ
ヨガ哲学では、世界を3つのグナの組み合わせだと考えます。
それはサットヴァ・ラジャス・タマスの3つです。
サットヴァ(純質)
純粋で汚れがない状態。透明。軽い。光を通す。正知と結びつく。
ラジャス(激質)
動きを表す。激しい。激情。怒り。執着。欲望。痛み。
タマス(暗質)
濁っている。不純。暗い。重い。不透明。光を通さない。怠慢。眠り。無知と結びつく。
それぞれのグナがもたらす影響
ヨガでは常にサットヴァ性を高める努力を行います。
サットヴァ性は不純物がなく、明るい状態なので真実を見ることができ、幸福を感じやすい状態です。
それに対して、争いが起きている状態はタマスやラジャスが高くなっています。
タマスは真実が見えない状態であり、間違った見解により他者を否定します。そして、ラジャス的な怒りの感情が高まり人は攻撃的になります。
世界に存在する全てのものはこの3つに当てはまります。
例えば食べ物について考えると、サットヴァ性の高い食べ物は新鮮で栄養価が高く、健康につながるものです。
ラジャス性の食べ物は、アクティブにしてくれたり、熱を生んだりするような辛い食べ物、カフェインなどが含まれます。
タマス性の食べ物は古かったり、添加物が多かったり、アルコール性の食べ物で、食べた後に身体がだるくて休みたいと感じます。
物質世界は1一つに留まることができない
さて、私たちは常に調和を保ちたいと考えていますし、幸せになりたいと考えています。
しかし、どれだけ頑張ってバランスを取って幸福を手に入れたとしても、ずっとそこに留まることができないのは、物質的な世界の定めなのかもしれません。
インドの著名な聖者ニサルガダッタ・マハラジ(以下マハラジ)は書籍 ”I Am That” の中で戦争がなくならない理由について言及しています。
世界はより良くなるべきだけれども、そうはならなかった。サットヴァ(純質)が上昇している時には、そこに調和と平和の期間があった。しかし、物事はそれ自体の完成によって破壊される。
(I Am That)
サットヴァであることは、静かであることです。
完全なバランスが取れていると、あらゆる動きは不要となり、全く変化の起きない状態、それが安定です。
しかし、変化のない状態とは、すなわち「停滞」を意味します。
人の人生であっても、経済であっても、「停滞」は好ましくないものであり、必ず崩壊へと繋がります。
1一度頂上まで登ると、必ず下方に落ちていきます。登った高さが高いほど、落下も激しいものとなります。
私たちは社会という大きな単位で捉えるため、上手く理解できないかもしれませんが、人の人生に置き換えて考えるとよく分かります。
人は必ず誕生の瞬間を体験しています。
それは本当に幸福なことなのでしょうか。
両親にとっては、人生の最上の瞬間かもしれません。しかし同時に、人生の中の苦しみもセットで与えられてしまいます。
人が成長し、努力し、何かを成し遂げることができるかもしれません。
しかし、頂点を1一度味わった人は、そこから落ちることを避けられません。
人の能力は必ず衰退していき、後から出てきた若い才能に敗北する時が必ず訪れます。
そして、老いて、いつか亡くなります。
このように人生には必ず誕生と死との両方があり、幸福と不幸も隣り合わせです。
どれだけ恵まれた人であっても、一生涯ずっと幸福だけを感じることはできません。
それは、サットヴァ・ラジャス・タマスという3つの要素によって作られた世界の理であり、誰にも変えることはできません。
内側に問うことで見つけられる幸福
物質世界は非情なものだと感じるかもしれません。
人がもっと賢くなれば争いがなくなり、苦しむ人が減ると考えるかもしれませんが、そう簡単にはいきませんね。
どれだけ医療が発達しても突然伝染病が流行って苦しめられることもありますし、自然災害も起こります。
人がどれだけ叡智を発揮しようと思っても、世界は常に誕生と破壊を繰り返し、それを変えることはできません。
より良く生きるための努力は大切ですが、最高の状態を永遠と維持することはできないのだと理解しておく必要があります。
では、こんな不条理な世の中でのヨガの救いとはなんなのでしょうか?
内側の真実と、物質的な表現を愛する
ヨガでは、自分の内側にしか存在しない完全な存在を求めます。
それは、プルシャ(真我)と求められたり、アートマン(個の本質)と呼ばれたりします。
日本人の感覚だと、魂に似ているものです。
物質的なあらゆるものは生まれて、成長し、いつか破壊されます。
しかし、内側に宿る真実だけは常に完全な状態で変化しません。
世界は、サットヴァ・ラジャス・タマスという3つの物質的な要素の組み合わせであるため、常に変化し続けますが、変化の姿には何の意味もありません。
また、内側の自分は、自分が何をするべきなのかを理解しています。
私たち1人が努力をしても、世界平和を達成することは難しいかもしれませんが、だからと言ってそれが意味のないものではないのです。
自分がすべきと思ったことを一生懸命行うことが大切です。
行為の結果が完全なるものである必要はなく、自分自身の行為自体が完全なものとなります。
マハラジは、物質世界で行為をすることを”装飾品を作ること”に例えました。
金から美しいアクセサリーを作る時、金自体の価値が変わるわけではありません。
しかし、さまざまなデザインによって表現されることで、新しい美しさを得ることができます。
それが人生の”味わい”です。
私たちの努力によって、より良い世界を目指すこともできますが、それが破壊されてしまうこともあります。
いつか壊されてしまうからと諦める必要もありません。
私たちが精一杯行った行為こそが、完全な美しさです。
混沌とした世界の中での美徳を見つける
ヨガでは、世界を変えることは可能などとは簡単には言いません。
ヨガの基本は自分自身に向き合い、自分を高めるためのものです。
それは時に利己的だと感じる人もいるかもしれません。
しかしながら、ヨガは自分だけを知るものではなく、自分を知ることで世界全体を知る叡智も与えてくれます。
世界全体の仕組みを知った時、完全な平和も完全な幸福もないのだと気がつくかもしれません。
それは残酷と感じる人もいるでしょう。
社会の中で生きている私たちは、自分だけが幸せになっても納得はできず、世界のどこかで苦しんでいる人たちのことも気になってしまいます。
そんな私たちに何ができるのでしょうか。
多分、ほんの少しのことしかできないと思います。しかし、私たちの思い、実際に動いた行動、それは小さくても本物です。
ヨガの聖者たちは、私たちが行った行動に意味はないのだと言います。
全てのものは生まれて、また破壊されていきます。しかし、その瞬間の輝きや美しさは本物です。
無常なものに必死に固執すると苦しくなりますが、その瞬間ごとの輝きを見つけることはできます。
参照:I am That: Talks with Sri Nisargadatta Maharaj, 1973年