山々に囲まれた草原で片脚を首にかけて読書するインドの男性

サンスクリット語で深めるヨガ・スートラ「ヨガとは?」

ヨガの経典と言えば『ヨガ・スートラ』ですが、もともとはインドのサンスクリット語という言語で書かれています。

サンスクリット語は梵語、つまりブラフマン(宇宙原理)の言葉であり、神々の言葉です。

ヨガ・スートラのサンスクリット語本文を少し読んでみると、とても独特な単語選びをしていて、この経典を綴った人の考えがより深く見えてくることがあります。

今回は、ヨガ・スートラの冒頭部分を読みながら、ヨガ・スートラの世界を少しだけ深く感じてみましょう。

ヨガ・スートラ1章「ヨガとは?」

1番有名な冒頭の4節を読んでいきます。

本当に短い4行の言葉だけですが、それでもヨガへの理解がとても深まります。

ヨガ・スートラは、膨大なヨガの教えを最小限の短い言葉で記したのものなので、1節ずつをじっくり読むことが大切です。

1.1 atha yogānuśāsanam(これよりヨガを教示しよう)

最初のアタは、「さて」「今から」という意味があります。

これは、グル(師)からの言葉ですが、先生はある時点で弟子に向けてヨガの教えを伝えようと決心します。

インドでは、ヨガを含めてあらゆる知恵は必ず師から弟子に直接伝承されます。

しかし、教えは準備のできた人にしか教えられません。

師に出会うと、師と生徒は一緒に生活を行い、その中から生徒は先生の背中を見て学びとは何かを、日常生活の中から学んでいきます。

日本でも伝統文化の師弟関係はとてもよく似ていますね。

例えば、和食の料理人になりたくても、最初は雑用ばかりでなかなか料理を教わることはできないかもしれません。

しかし、その下積み時代に時間をかけて「料理人とは何か」と感じ取っていきます。

この”アタ”という言葉には、生徒たちにとってとても明るい希望が感じられます。

ア ヌ シ ャ ー サ ナ ンはただ教えるだけではなく、権威のある教示、指導、命令の要素を含んだ言葉です。

インドでは重要な教典をシャーストラと呼び、例えば風水の教典は「ヴァーストゥ・シャーストラ」、法を説くものは「ダルマ・シャーストラ」と呼ばれていますが、シャーストラという言葉はシャーサンから来ています。

ただ話すだけではなくて、これから説かれる教えの重要さが感じられます。

1.2 yogaḥ cittavṛtti nirodhaḥ(ヨガとは心の働きを止滅すること)

ヨガ・スートラの中で最も有名な言葉ですね。

ヨガ(ヨーガ)は今さら説明する必要もないと思いますが、元々は「くびきを負う」、「結合する」といった意味のサンスクリット語“Yuj”から来ていると考えられています。

ここでは、当時から主流であったラージャ・ヨガ(瞑想のヨガ)を意味しています。

チッタは「心」全てを含んだ言葉です。

現在表に出ているの顕在意識、奥に潜んでいる潜在意識、もしくは無意識なものも含んでいます。

パターンジャリ(ヨガ・スートラの編纂者)によると、チッタはブッディ(知性・各)、アハンカーラ(自我意識)、マナス(至高)を含んだ言葉です。

ヨガ哲学が伝える、世界がうまれたしくみ

ヴリッティは通常「働き」「活動」と翻訳することが多いですが、「円形」を意味するヴリッタから発生しているため、「円形をなす」というのが元々の意味です。「波」「渦巻」という意味も含んでいます。

私たちの心を水面だと考えてみましょう。

たった1つの小石を水面に投げた時、水の波紋は円形を描きながら、どんどん大きく広がっていきます。

心とは、たった1つの対象(小石)によって、どこまでも大きく広がり続けるものです。

たった1つの単語が、とても豊かなイマージを生み出してくれる美しい言葉ですね。

ニローダは「阻止する」という意味です。

チッタが湖、ヴリッティが波であれば、心の働きがある時には湖の底を見ることができません。

私たちは真実を知るために、心の働きを止めていきます。波がなくなった静かな水面を通して、初めて私たちは真実を見ることができます。

1.3 tadā draṣṭuḥ svarūpe avasthānam(その時、見るものは自らの本性に留まる)

その時というのは、「心の働きが止滅した時」です。

ド ラ シ ュ ト ゥ フは、「見るもの/傍観者」という意味です。

ヨガ・スートラでは「見るもの」「見られるもの」という言葉が度々出てきますが、見るものは「プルシャ(真我)」を意味し、見られるものは「プラクリティ(物質の根本原理)」を意味します。

ちなみに『バガヴァッド・ギーター』の中では「土地」と「土地を知るもの」と表現されています。

教典によって表現が違うので、面白いですね。

ヨガ・スートラの“見るもの”と“見られるもの”との関係とは?

「見るもの」であるプルシャ(真我)、つまり自分の本質の部分は、「傍観する」ということしか行いません。

自分自身では何かを作り出さないため、活発に動き変化し続けるプラクリティ(物質世界)をまるで映画を観るように傍観します。

そして、映画の主人公に感情移入するように、プラクリティ(物質)こそが自分だと勘違いをしてしまっています。

つまり、物質世界の一部であるチッタ(心)が活発に働いている時には、プルシャは自分自身を見失っています。

心が止滅した時、初めて自分自身の本当の姿に出会うことができます。

ヨガで探すべき真理とは、自分自身の本性(プルシャ)です。

ヨガの答えを求めて聖者に会いにいったり、聖地巡礼をしたり、神々に祈っても真実は見つかりません。

ヨガの答えは自分の内側にしかないからです。

ヨガでは瞑想によって心を制御する練習をします。それは簡単なことではありませんが、瞑想を深めた時、自分自身の内側から光り輝く真実が見えてきます。

1.4 vṛtti sārūpyam itaratra(その他の時は、心の働きと一体化する)

その他の時(イ タ ラ ト ラ)とは、心が止滅していない時です。

つまり、通常の人間としての生命活動を行っている時全てです。

心が働いている時には、私たちは心とサ ー ル ー ピ ャ ム、つまり同一視、もしくは一体化した状態にあります。

ヨガの哲学においては、心や体は物質世界のものであり、本当の自分ではないと考えます。

心を自分だと認識してしまった時、私たちは悲しみ、苦しみ、喜び、妬み、嫉妬、嫌悪といったあらゆる感情に支配されてしまいます。

例えば、テレビゲームをしている時に、ゲームの中のキャラクターが負けてしまったら自分のことのように悲しいかもしれませんが、本当の自分自身は何も傷ついていません。

それは、ゲームの電源を切った瞬間に、初めて我に返る思いをします。

この「我に返る」という経験こそが、プルシャ(真我)との出会いです。

最小限の言葉から感じられるヨガの魅力

通常ヨガ・スートラの翻訳をする時には、理解しやすいように工夫されているのですが、分かりやすくしたことでヨガの魅力に気が付けないことがあります。

今回はヨガ・スートラ冒頭のたった4節をご紹介しましたが、その中でもたった1語の「ヴリッティ(働き)」という単語から、ヨガ哲学の考える心の働きのイメージを膨らませることができたと思います。

言葉には、綴った人の人間性が現われます。

ヨガ・スートラは本当に最小限の短い言葉しか使いませんが、そんな中から編纂者パターンジャリの人柄が感じられる気がします。

ヨガ・スートラ全てをサンスクリット語で読むのはとても難しいのですが、大切な単語だけでも勉強することで、新しい発見がたくさん見つかると思います。

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