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瞑想を行うヨガでは、サマーディという高い精神状態を目指します。
サマーディは自分自身、エゴや執着と完全に切り離された状態です。『ヨガ・スートラ』では瞑想によってサマーディを目指しますが、それには5つの段階があります。
今回は、ヨガ・スートラに書かれた瞑想とサマーディについて考えてみます。
瞑想を実践している人は、自分の瞑想の道筋が正しいのか考えてみるのに良いと思います。
ヨガ修行者が到達できる無想三昧とは
ここでお話しするのは、一般的なヨガ実践者にとってのサマーディへの到達の仕方です。
ヨガの世界では、神様と人間の瞑想に違いを設けません。
神霊であっても、人であっても、瞑想によって高い次元の悟りに到達することができます。
しかし、神霊(物質的な身体から離れた存在)にとっては、より自然発生のサマーディが起こります。
それに対して、身体に束縛された人は、瞑想の努力が必要となります。
その他の人たち、すなわちヨーガ行者たちの無想三昧は、堅信、努力、念想、三昧、真智を手段として得られるのである。(ヨガ・スートラ1章20節)
無想三昧というのは、サマーディの中でも、あらゆる思考の働きが停止した深い瞑想状態です。
サマーディには有想三昧と無想三昧の区別がありますが、これについても簡単にご説明します。
有想三昧と無想三昧の違い
ヨガ・スートラでは2つのサマーディ(三昧)を定義しています。
- 有想三昧(サムプラギャータ・サマーディ):心の働きが残ったサマーディ
- 無想三昧(アサンプラギャータ・サマーディ):表面化する心の働きは止まったサマーディ
私たちはサマーディが無の境地だと考えがちですが、ヨガ・スートラにおいては、精神状態の1一つでしかなく、それが完全なゴールではありません。
サマーディに到達した後でも、そこがヨガの目的ではありません。サマーディにもいくつかの段階があり、それを経て本当の目的である完全な自由を目指します。
そもそもサマーディとはなんなのでしょうか?
ヨガ・スートラではサマーディを「瞑想の対象のみが残り瞑想者自体が消えてしまったような状態」だと説きます。
つまり、サマーディとは、「自分」という概念、エゴが完全に消えた状態です。
最初は有想三味からはじまる
最初のサマーディでは、瞑想の対象がまだ残っています。
たとえば、マントラ瞑想を行っていたのであれば、そのマントラの音はまだ残っていてもサマーディと呼ぶことができます。
その音と完全に一体となり、自分自身が消え去ってしまった状態がサマーディの第一段階です。
そのように、微細ではありながら、心の働きが残っているものが、有想三昧です。
人によっては、呼吸を深めていたら、自分が呼吸そのものになっていたという経験があるかもしれません。
マントラを唱えていたら、マントラの音そのものになってしまうこともあります。それは有想三昧の状態です。
無想三昧も無ではない
それに対して、無想三昧は、あらゆる心の働きが止まった状態です。
無想三昧は、一見何も無い状態に思われます。
しかし、ヨガ・スートラでは、無想三昧を「行(サンスカーラ)だけが残った境地」であると説きます。
サンスカーラは潜在印象、つまり、表面化はしていないけれど印象として残ってしまった記憶です。サンスカーラは必ず未来のどこかで表面化します。
たとえば、DNA に例えて考えてみましょう。
人間として生まれたことにより、赤子の時には似ていた2人の子供が、年齢を重ねるごとに1人は男性らしく、もう1人は女性らしく成長します。
赤ちゃんの時には表面化しなかった男性/女性という潜在的な区別により、1人は背が高く筋肉質で声が低く成長し、もう1人は華奢で背が低くて声が高く育つといったことが起こります。
体の特徴であったり、才能であったり、努力では変えられないものがこの世には沢山あり、それはすでに刻まれている記憶によるからだとヨガでは考えます。
思考の働きについて考えてみましょう。
私たち人間には表面化していない思考の種が備わっています。
それは人間として生まれた時点で備わった本能的な思考のパターンかもしれませんし、生まれてから得た経験による記憶かもしれません。
これらの思考の種は、いずれ表面化します。その種は残っていながらも、今この瞬間には思考が全く働いていない。それが無想三昧です。
無想三昧は「無」ではありませんが、その瞬間はあらゆる思考が停止したとても深い瞑想の段階です。
無想三昧に到達するための5つの条件
サマーディの分類はとても難しいのですが、そこに到達するための条件はとてもシンプルです。
1つずつ順番に見ていきましょう。
シュラッダー(強い信念)
シュラッダーは、信仰ですが、宗教などを妄信するのとは少し違います。
自分が歩むと決めたヨガの道、先生からの教えを信じる強い信念です。
ヨガは疑いを持ちながらだと達成することはできません。この信念がないとあらゆる努力は叶いません。
「私の先生間違っているかも」と思いながら形だけの練習を続けても、何かを得ることができません。
そのためヨガでは、正しい先生と出会うことがとても重要視されています。
ヴィーリャ(努力)
ヨガは自分自身の努力でしか達成することができません。
教典の教えを読んだだけ、すごい先生に出会っただけではどこにも到達することができません。
結局は、自分自身で自分を導くための努力を決心し、ひたむきに向き合った人だけが達成することができます。
スムリティ(瞑想の記憶)
スムリティという言葉は、通常は記憶という意味で使われます。
しかしここでは、念想すること、つまり瞑想そのものを指していると考えられています。
瞑想は自分自身の意識に深く潜っていくことです。内側の自分に向き合い、真実を探していきます。
サマーディ(三昧)
瞑想によって4つ目の条件であるサマーディに到達することができます。
サマーディはそこがゴールではありません。あくまでも、本当の目的を実現するためのテクニックです。
しかしサマーディは狙っても起こりません。強い信念を持って、ひたむきに努力し、瞑想を続けた先に、ある日突然現れます。
サマーディは自分自身のエゴをすて、色眼鏡なく世界を見ることができると、初めて真実を知る準備が整います。
プラジナー(真智)
サマーディの結果、正しく自分と世界を知ることができ、プラジナー(真の知識)が現れます。
それは人間としての運命、一般道徳、宗教、神様などの、あらゆる概念を超えて、真っ新な状態で世界を知ることです。
正しい知識は教典の中にはなく、言葉で説明できるものではなく、自分自身で体験することでしか見つけることができません。
そのため、ヨガ修行者は自分自身で瞑想を行なって真実を追い求めます。
サマーディを理解することでヨガの目的を理解する
サマーディ自体はヨガの最終ゴールではありません。
しかし、サマーディの状態を正しく知ることが、自分の練習するヨガを理解する鍵になってきます。
サマーディへの道は、自分自身を浄化するプロセスです。
そこでは、あらゆる概念や宗教的流派は存在せず、自分自身との対話のみがあります。
そこまでの瞑想はできないと感じる人もいると思います。
しかし、サマーディはアーサナ(体位)やプラーナーヤーマ(呼吸)の練習の延長上にあるものです。
毎日のポーズの練習を行うとき、深い呼吸に意識を向けている時、それは本来の自分を見つけるためのプロセスです。
ほんの少しの意識を変えるだけで、練習の質が変わってくるので、日常の練習で気をつけてみましょう。