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自分の心を理解することはとても大切なことです。
様々な精神疾患の名前が知られることで自分の状態をカテゴリ分けして俯瞰しやすくなってきたかもしれません。
しかし、いったん悩み始めると、「分かっているけど制御できない」ということが多いです。
自分の心を「これが私」と主観で考えると苦しくなりがちです。
ヨガでは、より俯瞰する練習を行うことで、心の苦しみのパターンを手放そうとアプローチします。
心は見られるもの
教典『ヨガ・スートラ』の4章では、心について説明があります。
心は自分自身を照らし出すことはできない。心は見られるものであるからである。(ヨガ・スートラ4章19節)
私たちは、「私が考えている」と思い込んでいます。もしくは、考えている自分の心こそが自分自身だと思っていることでしょう。
しかし、ヨガでは心は自分でないと説きます。
なぜなら、「心は見られるもの」だからです。
瞑想を行っている人にとっては、とても分かりやすいかもしれません。
瞑想中には、できるだけ雑念を無くしたいと努力しますが、思考は勝手に働いて、自分の思い通りにいきません。
「思考を止めたい」という自分と、勝手に働いてしまう心の間で葛藤が起こります。
この時まさに、心は勝手に働き続けているものだと実感ができると思います。
日常生活の中では、あまりにも自然に心が働き続けているので、そこに気が付くことさえ難しいかもしれません。
「心は自身を照らすことはできない」と書かれていますが、私たちがそこに意識を向けないと、働いていることさえ無自覚です。
ヨガでは、まず観察することから始めますが、自分の思考に意識を向けることで、まずは無意識な思考に気がつくことが大切です。
映画の主人公を見るように自分を観察する
心を観察している私たちは、映画に没頭して観ている人の状態です。
ヨガ哲学では本当の自分(プルシャ・真我)のことを「傍観者」と呼びますが、私たちは見ているだけの存在です。
映画の内容がよりドラマチックで感情的であるほど、私たちはすっかり映画の登場人物に感情移入をしてしまいます。
その時、自分自身の退屈な日常のことは完全に忘れて、海賊になって世界中を旅したり、王族間の争いに巻き込まれてしまったりしているかもしれません。
ドラマやアニメの中の魅力的な登場上人物に完全に心を奪われて真剣な恋愛感情を抱いてしまうこともありますね。
しかし、壮大なストーリーが終わってエンドロールが流れ始めると、一気に現実が戻ってきます。
私は暗い映画館の中で座っていただけで、自分は何もしていなかったのだと気が付きます。
ヨガで自分を俯瞰するということは、映画の主人公は自分とは他人なのだと認識する作業と似ています。
様々な感情や思考は、私の意思と関係なく働き続けているものです。
また、私の心を通して見ている世界は、1つのカメラが写した映像です。
ライバルとの決戦の場面で、私の構えたカメラが写す映像と、ライバルが見ている映像は全く別物です。
もしくは、ベンチで応援する監督が見た映像や、客席に座っている家族の見る世界も別物です。
自分を俯瞰するということは、一方的な視点で世界を見たことで起きる思い込みも消し去る作業です。
映画撮影のカメラの位置を変更するように、主人公の私が苦しんでいる時、その周囲の脇役からどのように見えているのかを観察して見ましょう。
全く違う世界が繰り広げられているかもしれません。
変わらない自分が心を観察している
心は外の世界に翻弄されて常に変化し続けています。
心は無常のものであり、いっときたりとも変化を止めることがありません。
しかし、そんな心を観察している私の本体は、心の状態に影響されることなく安定しています。
心のはたらきは常に意識されている。心の主君である真我(プルシャ)は決して転変しないからである。(ヨガ・スートラ4章18節)
目の前に起きた出来事に対して、感情が大きく揺れ動くことは普通のことです。
どれだけヨガを練習して穏やかになった人で合っても、体が傷つけば痛みを感じ、食事をすれば味を感じ、争いが起これば悲しいと感じます。
それは、心が物質的なものであり、本質である私(プルシャ・真我)とは違うものだからです。
しかし、感覚や感情に対して、客観的になり、そこに支配されにくくなります。
まるで幽体離脱したように自分自身を観察することができれば、冷静さを失うことがありません。
ヨガで「本当の私」だとされるプルシャ(真我)は、どんな時であっても変化することがありません。
それは、プルシャが物質に囚われない存在だからです。
ヨガの練習で少しずつプルシャの視点になる
人生の中での苦しみは、感情にどっぷりと使っている時ほど大きく抜け出せなくなります。
冷静に物事を捉えることができれば、何が本当の問題なのかが見えるようになり、自分自身で抜け出す道を見つけることもできます。
だからこそヨガでは、客観的なプルシャの視点に戻るためのアプローチを中心に行います。
例えばアーサナの練習をしている時、自分の体が感じていることをできるだけ客観的に観察し、自分自身を知る練習をします。
普段は身体が自分であり、自分が身体を動かしていると思い込んでいるため、一人称でしか意識することができません。
自分の体の動きを外から見た時、どれだけ無駄な動きが多く、身体に負担をかけていたのかを初めて知ることができます。
同じように感覚器官を観察し、呼吸を観察します。
身体をどう動かすと、どのように感じるのか。できるだけ詳細に観察することで、本当に身体にとって快適な場所がわかるようになってきます。
心の動きも全く同じです。心の働きには必ずパターンがあります。
自分の感情が、どのような場面で、どのように感じるのかを1一つずつ観察し、どうしたら快適に感じられるのかを自分で見つけます。
自分の心は自分にしか分からない
世間には様々な情報があり、アンガーマネジメント(怒りのコントロール)や、ストレスの解消法などに関して、本当に沢山の対処法があります。
それらは多くの人にとって役に立つ情報であると思いますが、どれだけ本に書いてある通りに実行しても上手くいかないと感じる人もいます。
人の心は100人いれば100通りです。価値観も全く違うものです。
傾向として多くの人が思っていることも、当てはまらない人がいるのは当然のことです。
自分の心をコントロールしたいと思ったら、最終的には自分自身に向き合わなくてはいけません。
例えば精神科に行って一時的に薬で症状を穏やかにすることは可能ですし、カウンセラーに話を聞いてもらうことで楽になる人もいます。
しかし、人任せでは依存が生まれるだけで、根本的な解決にはなりません。
自分の心に向き合うことには大きな勇気が必要です。
本当に苦しい時には、誰かに頼ることも大切です。
まずは落ち着くまでできる対処を行い、少しずつ冷静さを取り戻したら、自分の心に向き合う時間が欲しいですね。
自分自身を知ることができれば、自分が1番力強い、決して離れることのない仲間だと感じられます。
心との向き合い方を考えてみよう
自分の心を観察するのは容易なことではありません。少しずつヨガの練習の時間から学んでいきましょう。
ヨガのアーサナの練習をしている時、「ちょっと無理をしてもこのポーズをしたい」と感じたら、そんな自分の心を子供に接するように観察して見ましょう。
または、集中したいけれど、仕事のことが気になってしまう時にも、「私は1つ気になることがあると、解決するまでずっと緊張して考え続けてしまうのだな」と自分を知ることができます。
最初は、ただ観察するだけで大丈夫です。無理に心をコントロールする必要はありません。
自分自身を知って、受け入れてあげることからヨガは始まります。