ナマステの手で両腕を空へと挙げる女性

全ての行為を祈りとして行うバガヴァッド・ギーターの教え

なんとなく不満が溜まっているな、もっと心地よく生活したいなと感じている人におススメしたいのが、バクティ・ヨガ(祈りのヨガ)です。
教典『バガヴァッド・ギーター』の中でクリシュナ神は、全ての行為を祈りとして行うことを勧めました。祈りを生活の中に取り入れることで、世界の見え方が変わってくるかもしれません。

クリシュナ神の祈りのヨガ

クリシュナ神がバンスリを吹くイラスト

祈りのヨガというと、家に祭壇を作ってお祈りをしたり、マントラを唱えたりするイメージを持つ人が多いかもしれません。
しかし祈りの種類は様々あり、特定の宗教的儀式を行うことだけが祈りではありません。

『バガヴァッド・ギーター』の中で、クリシュナ神は「毎日のあらゆる行いを祈りとして捧げるべきだ」と説きます。

あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げ物とせよ。

『バガヴァッド・ギーター』9章27節

では、「普通の行い」と「祈りとしての行い」とは何が違うのでしょうか。

祈りとして行うことは結果を求めない

神社やお寺に行って、お賽銭を投げるときのことを考えてみましょう。

もしかしたら、「大学合格」や「病気が治りますように」など、なんらかの願いを込めて参拝に行く人も多いのかもしれません。お賽銭を投げて手を合わせて祈った時、それだけでスッキリとする感覚はありませんか。その感覚にはご利益はそれほど大切ではありません。

もしかしたら、神様の前で祈ったことは叶わないかもしれません。しかし、「お賽銭損した!」と思う人は少ないと思います。
神社仏閣の清らかな空気の中で心がスッキリとし、この場所に来れたことへの感謝の心が湧き出てくると、それだけで心はきっと満たされます。
普段よりも深く息を吸って、心の落ち着きを感じる人も多いでしょう。
守られているような、安心感を感じる人もいると思います。

本来、祈りとは見返りを求めるものではありません。
学業や仕事、スポーツなどで成功祈願を行うこともありますが、それは結果を神様にコミットしてもらうものではありません。見守ってくれている存在に感謝し、自分自身が努力することを約束するものです。たとえ願いが叶わなかったとしても、神様に怒ることはありませんよね。
祈りの行為は感謝そのものであるべきです。自分の内側に感謝の気持ちが溢れている時には、不満を感じることはありません。

それに対して、私たちの日常の行いのほとんどは結果を求めるものです。お金のために仕事をする、ダイエットのために運動する、愛されるために贈り物をする・・・だから、求めた結果が得られなかった時には失望し不満を感じてしまいます。

日常の行為も祈りのヨガとして行なってみよう

室内を箒で掃除する女性

バクティ・ヨガ(祈りのヨガ)の生き方について考えてみましょう。
クリシュナは「あなたが行う全てのことを捧げものとしなさい」と説きました。行いの結果として自分が得るものの為ではなく、行い自体が祈りだと説くのです。

全ての行いを祈りとする

日常ですでに行なっていることを祈りだと捉えることで、物事の見え方は変わってきます。たとえば、自宅を毎日掃除することはとても面倒なことですね。家族がいれば尚更です。自分が散らかしていなくても、いつの間にか部屋が汚れているかもしれません。
ここで、掃除を空間を清める為の祈りの行為だと考えて行なってみましょう。同じ掃除という行為をするとしても、部屋が綺麗になるにつれて、自分の心も清浄な状態になるのを感じることができるかもしれません。

また、仕事で付き合う人、利害関係にある人との人間関係においては、とても純粋な気持ちになれないと思うかもしれません。そんな時であっても、自分の発する言葉が汚れていないか、相手への感謝を忘れていないかといった事を見直せるようになるとよいですね。

全ての食べるものを祈りとする

インドでは、食事は快楽のための行為ではなく、身体を健康に保つための純粋な行為だと考えます。私たちは身体を「自分のもの」と考えがちですが、実際は違います。
生を与えられた瞬間から寿命が尽きるまでの限られた時間だけ与えられたものであり、時が来たら自然界に返さなくてはいけないものです。

食べ物もまた、自然界から与えられたものです。自分自身では生み出すことができない自然界から与えられた栄養素を、身体というお寺に備えているのが食事の行為です。そう考えると、大自然から預かっているこの大切な身体を健康で清浄な状態に保つためには、健康に悪いジャンクフードは避けた方がよいのかもしれません。

全ての供えるもの、与えるものを祈りとする

インドでは、神様への儀式に沢山の供物を用意します。どうして神様に供物を届けるのでしょうか。
古代ヴェーダ時代から、神様は自然界の大きな力です。太陽や月、嵐、雷、川など、私たち人間の生活に必要なものを授けてくれる巨大な力です。
神々は人間に対して、熱であるエネルギーや、水、農作物の恵みを与えてくれます。それに対して人々は、宗教儀式により神々に栄養素を届けました。
それがホーマ(護摩)と呼ばれる火を使った儀式です。火の中に投げ入れたギー(精製バター)や様々な香、穀物、椰子の実などを焼いた煙が天上に登っていくことで、神様に捧げものが届くと信じられているのです。

何かを供える時、それは感謝の気持ちであって、見返りを求めるためのものではないのですね。

全ての苦行を祈りとする

タパス(苦行)は、ヨガには不可欠なものです。タパスは主に修行を意味しますが、ヨガの修行とはなんなのでしょうか。
ヨガは、何かを足すものではありません。自分自身の内側の不純物を焼き払い、本質に出会うための行為です。
それは自分自身の本質に向けた、とても純粋な祈りの行為なのです。

難しいポーズをマスターしたい、長い時間瞑想をしたいなど、なんらかの結果を期待してしまうと、その欲がヨガの妨げになってしまいます。

ヨガの練習をする時は、自分の内側の神聖な本質を信じて、その純粋な存在に対しての祈りとして行いましょう。結果にとらわれることなく、ヨガを行う喜びを感じることができるでしょう。

祈りの行為の結果を喜んで受け取る

広げた両手に光が灯る様子

祈りの行為は見返りを求めないものですが、その結果は自ずと与えられます。
それは、自分が望んだものかもしれませんし、予想外のものかもしれません。どのような結果が与えられるかは自分では選べませんが、与えられたものを素直に受け取りましょう。

祭祀の残りものを食べる善人は、全ての罪悪から解放される。しかし、自分のためにのみ調理する悪人は罪を食べる。。

『バガヴァッド・ギーター』3章13節

ヨガを練習していると、できなかったことがある日突然できるようになることがあります。
狙って行うと失敗しがちなのに、欲が無くなった瞬間に急に叶うことはヨガ以外でも多々あります。
こんな時、天からプレゼントが降ってきたと感じることはありませんか。もちろん、自分の努力があってこそ与えられたものですが、いつ、どのように与えられるのかは自分ではコントロールできません。

また、願っていたものと違う形で与えられることもあります。運動不足解消のためにヨガを始めたら、睡眠不足が改善していた、胃腸の不調が治っていたなどと、思わぬ恩恵を受けている人はとても多いのです。
自ら求めなくても、、必要なものは必ず与えられるのだと気がつけるとよいですね。

日常の苦手なことから祈りとして頑張ってみる

全てを祈りとして、気を張って生活するのは難しいと思います。
そんな時は、あえて日常の苦手なことを祈りとして行ってみるものよいかもしれません。
行いやすいのは、掃除や料理をする時、一杯のコーヒーを丁寧に入れる時などひとりで没頭して行える時です。
日常の中に感謝と祈りを抱くことで、世界の見え方が変わってくると思います。

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