胸の前でナマステをしながらヨガマットに座る女性

苦しみをもたらす阿修羅的な言葉

幸福な人と、不幸な人は思考の癖が違うのかもしれません。
思考は言葉です。私たちは、心の中で何か考えている時も常に、言葉を使っています。思考は無意識に生まれ続け、考え方のパターンは人それぞれ癖があります。アンラッキーが続いている人は、もしかしたらネガティブな力を持った言葉を無意識に使っているのかもしれません。
今回は、ヨガの教典に書かれた不幸を導きやすい言葉を紹介します。

『バガヴァッド・ギーター』に書かれた苦しみをもたらす言葉

開いて置かれたバガヴァッド・ギーター

「私は運が悪い」「誰からも愛されていない」といった、明らかに消極的な言葉が良くないことは誰でもわかると思いますが、ポジティブに聞こえるような言葉でもヨガでは良くないと考えることがあります。

ヨガの教典『バガヴァッド・ギーター』に書かれた阿修羅(あしゅら)的な人が発する言葉をご紹介します。

私は今日これを得た、私はこの願望を達成するだろう。この財産は私のものだ。この財産も私のものとなるだろう。私はあの敵を倒した。他の敵も倒してやろう。私は支配者である。享受者である。私は成功し、有力者で、幸福である。私は富み、高貴な生まれである。他の誰が私に匹敵するか。私は祭祀を行おう。布施をしよう。大いに楽しもう。

『バガヴァッド・ギーター』16章13-15節

ここだけを読むとスーパーカーに乗った大富豪の姿がイメージされますが、これらのセリフは阿修羅的な人がよく使う言葉であり、苦しみを生み出す原因となります。ヨガの教典に出てこなさそうなこれらのセリフは、欲望にまみれた人は不幸になるといった短絡的な教えを語っているのではありません。

ここに書かれた言葉は全て、結果を動機とした価値観であることが問題なのです。
もう少し細かく見ていきましょう。

結果ファーストな言葉「私はこれを得た。私は願望を叶える。」

ヨガマットの上で辛そうに前屈する女性

一般的な価値観では、努力して何かを得ることは正しいことですが、ヨガでは、結果を求める価値観は良くないと考えます。

なぜならヨガでは、結果は天から与えられるものであり、自分自身で選べるものではないと考えるからです。常に結果を求める心こそが苦しみの原因だと考えます。

アーサナを練習している人の中には、ポーズの完成形に執着しすぎて体を痛めたことがある人もいるのではないでしょうか。例えば、座位前屈のポーズを行う時に頭が脚につけば体が柔らかいと思い込んでいる人がいるとします。しかし頭を下げて前屈を行うと、背中が丸まり不自然なアライメントとなり、体を痛めることに繋がります。
せっかく体に良いことをしているのに、怪我をしてしまっては本末転倒です。

どれだけ頭が脚に近づくかではなく、その瞬間の心地よさに意識を向けて練習を行うべきです。ヨガの練習を行えば、自然と結果は与えられます。結果よりも、自分の行いに意識を向けるようにしましょう。

富を独占したい言葉「この財産は私のものだ」

おもちゃを取り合う2人の女の子

富を独占しようとする思考こそが、大きな苦しみの原因です。しかし動物的な本能は、富を独り占めしようとします。

犬を飼っている人は、自分のテリトリーに少しでも入ってきた犬に対して激しく怒り攻撃する犬の姿を目にしたことがあるでしょう。
人間も同じです。子供が何人かいれば、オヤツのケーキが兄弟よりも少し小さいだけで激しく抗議します。お気に入りの玩具は、少しの時間でも友達に貸したくないと喧嘩になることも多々ありますね。

物を所有したい、独占したいと思う心は、生存本能によるものであり、手放すのは容易ではありません。この本能によって、世界は常に戦いに溢れています。

子供が喧嘩していれば、「玩具を一緒に使いなさい!」と叱っているはずです。しかし、自分のことになると、見えなくなってしまうのですね。

少し冷静に考えてみましょう。
子供が玩具を友達と共有して仲良く遊ぶように、全ての価値を他人と共有できるようになると世界はとても幸福です。共有することは損なことではく、一緒に楽しめる幸せが増えることだと思えるといいですね。

勝ち負けにこだわる言葉「私は敵を倒した」

天秤を使って二つの物を比較する女性

世界には常に勝ち負けがあります。
誰かと競おうと思っていなくても、自然とそうなります。

例えば自分自身の生き方を振り返るとき、他者と比較することがあります。自分では比較しているつもりがない人でも、サーチエンジンで「40代女性・収入・中央値」などのキーワードで検索することがあるかもしれません。
平均よりも高ければ「自分は大丈夫」と安心し、低ければ「自分には価値がない」と思ってしまうかもしれません。
収入の中央値で考えると、世の中の半数の人は中央値より高く、残りの半数の人は低いことになります。つまり、自分が中央値より高くなるためには、世間の半数の人が自分よりも低い収入であるという条件がつきます。

私が安心するために、他の人が私よりも低くないといけないという条件は健全ではありませんね。みんなが安心しようとして中央値を目指した結果、全体が高くなると競争が激しくなります。それが大変であれば、今度は誰かの邪魔をして中央値を下げなくてはいけません。

人と比較して得られる幸福は、本当の幸福ではありません。誰かと争わなくても感じられる幸せを見つけたいですね。

優劣をジャッジする言葉「私は成功者」

自分は成功している、有力者である、幸福であると自分に言い聞かせる行為は、「そうでないといけない」という自分自身への呪縛です。
自分は特別でないといけない、自分は人よりも上でないといけないという足枷に繋がれていると、たとえ人より資産を持っていたとしても心は窮屈です。常にその立場を奪われることへの不安を背負い、少しでも近づく人が出てきたら排除しなくてはいけません。

また、自分は幸福であると過剰に自分に言い聞かせるのも良くありません。
とてもポジティブな言葉に聞こえますが、そこには罠があります。

私は幸せなのだと自分を説得させるためには、常に理由を見つけなくてはいけません。私には愛する子供がいるから幸せと自分に言い聞かせていても、子供のワガママがひどい時や家事に疲れ切った時にはしんどくなってしまう時もあります。

人の感情が浮き沈みするのは、自然なことです。
しかし、ネガティブになるべきではないと自分に言い聞かせていたら、自分に対する嘘が生まれてしまいます。時には辛い時や苦しい時があるのが人生です。無理に自分は幸せなのだと言い聞かせる必要はありません。

ヨガ的心の観察〜ネガティブにも、ポジティブにもとらわれない心を育む〜

「私はこれだけ良いことをした!」と宣言する

透明のビンに集められたコイン

日本には謙遜の文化があるので、自分の行いを自慢する人は少ないかもしれません。逆に、自己肯定感を高めるために、自分の頑張りの成果を認めてあげたほうが良い時があるかもしれませんね。

インドでは著名人が慈善団体や宗教団体に巨額の布施をした時、自らの力を見せびらかす為の慈善行為は本来の目的を逸脱しているとよく言われます。
インドで考えられる布施や寄付は、“自分の”お金や富に対して執着する心を手放すための行為です。富とは流動的なものであり、一時的に自分のところにあったとしても、個人の所有物ではないと考えます。

しかし自分が寄付したことを大々的に宣伝することは、寄付した金額の対価としての名声や称賛、社会的地位を求めることになってしまいます。それでは本来の意味である「手放し」にはなりませんね。
自分が所有している物を必要とする人がいたら、快く手放すことができる身軽さが自由に繋がります。

但し、偽善であったとしても、称賛を得るためであったとしても、寄付自体は良い行いです。もし誰かが被災地や貧しい国に寄付をしたら、それによって救われる人が必ずいます。偽善だと思ったとしても、その行為を非難することは良くないですね。

自分の発する言葉に意識を向けてみよう

今回は、『バガヴァッド・ギーター』に書かれた阿修羅的な人の言葉を紹介しました。
ここに書かれた言葉は、必ずしも悪い言葉ではありません。しかし、これらの言葉がしがらみになってしまうことで、苦しみを生み出してしまうこともあります。
無意識にこれらの言葉を発していると気づいた時には、意識をちょっと変えてみましょう。
思考は言葉そのものなので、自分の内側から出てくる言葉が変われば心が変わります。
心が変われば自分の人生の方向性が変わる
ので、できるだけ良い言葉を使うようにしたいですね。

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