『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』~どこまでも自分を貫く~

みなさん、こんにちは。丘紫真璃です。
今回は、『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』を取り上げたいと思います。

コルチャック先生はユダヤ系ポーランド人の小児科医であり、教育者や児童文学作家としても当時のポーランドで非常に有名でした。何よりの功績は、第一次世界大戦前に “子どもの権利” という概念を打ち出した点でしょう。
当時は、子どもは意見を述べるべきではなく大人の言うことを聞いていればよいのだという教育が主流でした。しかしコルチャック先生は、子どもは未来の小さな大人ではなくそのままですでに1人の人間であるという新しい思想を打ち出します。これが、第二次世界大戦後に制定された「子どもの権利条約」につながっていったのです。
というわけで今回は、子どものために人生を捧げたコルチャック先生とヨガの関係について考えていきたいと思います。

子ども時代

コルチャック先生の本名は、ヘンリク・ゴルトシュミット。1878年7月に、ワルシャワの裕福な家庭で生まれました。子ども時代のコルチャック先生はヘーニョと呼ばれており、とても穏やかで思慮深い子どもだったそうです。
例えば、雨降りの日。ヘーニョが窓の外を眺めていると、子守のマリシャに「窓から外ばっかり眺めていないで、もっと大事なことをしなさい」と叱られます。けれども、ヘーニョは思います。

マリシャがどうして怒っているのか、ヘーニョにはさっぱりわかりません。だって、自分はとても大事なことをしているのですから。窓から外を見ながら、何が起こっているのかを考えているのですから。たとえば雨のこと。どうして雨は降るのか?どこから落ちて来るのか?こんなにたくさんの水が空にあるって、どういうことなのか? 太陽はどこに隠れたのか?でもそれ以上、マリシャをいらだたせることはしたくありません。だから、ヘーニョは口を閉じました。

『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』

そんなヘーニョの理解者は、彼のおばあさんでした。彼は、おばあさんにはいつも素直に自分の考えを打ち明けています。

例えば、お父さんは、「子どもと魚には物事を決める権利はない」といつも言うけれども、どうしてなのかということや、自分はどうして貧しい子どもと一緒に遊んではいけないのかということ。ユダヤ人とポーランド人は何が違うというのかということや、大人も子どもも、お金持ちも貧乏人もポーランド人もユダヤ人も同じになるにはどうしたらいいのかということなど。
そうした彼の考えを否定せずに聞いてくれた理解あるおばあさんがいたおかげで、彼は考える力を持った大人に成長します。18歳の時、弁護士だった父が亡くなると、彼は家庭教師をしたり執筆をしたりして家計を支えるようになりました。
彼の執筆した作品は次第に人気を博すようになり、彼はヤヌシュ・コルチャックというペンネームを使うようになります。そして執筆料で稼いだお金で医学部に通い、小児科医として働くようになりました。こうして彼は、小児科医ドクトル・コルチャックとして活躍するようになるのです。

ドム・シェロト

1910年、コルチャック先生はユダヤ人孤児のために建てられた孤児院「ドム・シェロト」の院長となります。そして、コルチャック先生と志を同じくするステファさんという仲間と共に、子ども達のために働き始めます。先生は、ここで様々な革新的な教育を行いました。
例えば、いたずらをする子ども達にステファさんが困り果てていた時、コルチャック先生はこう言います。

大人が子どもに、「お前の振る舞いは悪い」と言っても、良い効果は期待できません。子どもは思うのです。大人に恨まれている、あるいは理解されていないと。ところが評価を子どもどうしに委ねると、うまくゆくのです。子どもは自分と同年代の者の中に自らの鏡を見ます。彼らには仲間の意見が最も重要なのです。

『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』

コルチャック先生は、子ども法廷を週に一度開くことを提案します。裁判官は子ども達で、前の週に一度も裁判をかけられなかった子どもの中からくじ引きで選ばれます。コルチャック先生が法典と条文を細かく考え、それに則って裁判が行われるのです。この裁判では、子どもが大人の職員やコルチャック先生、ステファさんを訴えることもできました。
こうして「ドム・シェロト」で始まった子ども裁判では、子どもが他の子を訴えることもありましたし、時には自分自身を訴えることもありました。その全てを子ども裁判の書記だったコルチャック先生はノートに書き止めました。
例えば、こんな感じです。

  • 他の子に自分の能力を見せつけたくて、木に登った。木登りは禁止されていると知っていたので、自ら告白した。第90条
  • クロークルームで皿を洗った。それが禁止されていると知らなかった。いけないことだと知って、自ら出頭した。第51条
  • 起床前に騒いだ。法廷に出頭。裁判は以後繰り返さないように要望し、許した。第32条

『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』

最初の週には数十件の訴訟案件が集まり、法廷で慎重に審議されました。その結果、全ての被告は罪を許されたのです。
この裁判制度は、とてもうまくいきました。大人が罰したり注意したりせずとも、手に余るほどのいたずらをする子はいなくなり、「ドム・シェロト」は軌道に乗って運営できるようになりました。
さらに先生は、子どもや職員が誰でも記事を書ける「ドム・シェロト新聞」を発行したり、口で言いにくいことを手紙で打ち明けるためのポストを設置したり、新入生の世話を子ども達にさせてみたりと、次々に画期的な試みを行っていきます。
「ドム・シェロト」は次第に人気の孤児院となり、注目されるようになりました。コルチャック先生は子どもの教育者として有名になり、各地で講演を依頼され、未来の教育者達の指導にあたるようになります。
その中でコルチャック先生は、未来の教育者の若者たちにこう言っています。

子どもという一般的なイメージを避けることです。モシェク、ハイメク、ルージャ、マリシャを理解しない養育者は子どもと関わる仕事をすべきではありません。

『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』

またある時は、子どもが鼻をかんだ後のハンカチの研究がいかに大切かということを語っています。

(こどもたちのハンカチには)驚くべき発見があります。医学的観点から分泌物に注目しなければならないことは言うまでもありませんが、その他に、ハンカチは子どもたちの宝物の保管場所とも言えるのです。今日、わたしが見つけたのは、二個の珊瑚玉、キラキラしたチョコレートの包み紙、貝殻、鳥の羽……さらにある子のハンカチはくしゃくしゃしていて、汚れています。またある子のハンカチは清潔と言えるかどうかは別にして、きちんと折りたたまれています。目立つことのない鼻をかむためのハンカチひとつから持ち主の個性をうかがい知ることができます。

『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』

こうしてコルチャック先生が有名な教育者として着実に子どもの教育論を広めていた矢先、第二次世界大戦が勃発します。

第二次世界大戦

第二次世界大戦中、ナチスがユダヤ人に対して様々な迫害を行ったことはあまりにも有名ですよね。ユダヤ人のコルチャック先生やステファさん、「ドム・シェロト」のユダヤ人孤児たちも例外ではありませんでしたが、先生は断固として自分の信念を貫きました。
1939年、「12歳以上の全ユダヤ人は右腕に青色のダビテの星のついた白い腕章をはめること」と政府から布告されましたが、先生は腕章を一切付けませんでした。また、ユダヤ人は外出時間も限定されていましたが、先生は外出禁止時間でもワルシャワの通りを歩き回り、子ども達のための食糧集めに奔走しました。ステファさんが怖がって先生に注意すると、コルチャック先生は激しくこう言います。

子どもたちの食べ物が不足しているこのご時世、あらゆる禁止や命令はわたしには関係ない!いつであろうと、どこであろうと、わたしは望む所に出かける。

『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』

1940年、ワルシャワには壁で閉じられた地区が生まれました。ユダヤ人ゲットーです。ワルシャワのユダヤ人全員がゲットーに移転することを義務づけられ、「ドム・シェロト」もゲットーへの移転命令を受けました。ゲットーの中に入ったユダヤ人は、高く厚い壁の中からは決して出ることができません。もしも脱出しようとした場合には、射殺されてしまいます。
そんなゲットーへの移転が決定した時、コルチャック先生は大きな声でこう言います。

引っ越しは子どもたちが自ら望むこととする。彼らはもうそのことを受け入れているからね。だから、ファンファーレを鳴らし、踊りながら演劇のように行進しよう。手にはランプや鳥かご、絵、色とりどりのゼラニウム、そしておまるを手にして移転先まで行進する。

『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』

ゲットーの中でも先生は今までのように新聞を発行し、童話を話して聞かせ、勉強を教え、娯楽サークルや、縫物作業、人形劇場、演劇公演など、様々な活動を精力的に行って、子ども達の心を支えます。その一方で、子ども達の衛生環境を守り食料を確保するためにナチス協力者に助けを求めるなど、あらゆる手段を駆使して戦いました。
先生を慕っていたある人は、コルチャック先生一人だけをゲットーから出して匿う手段を提案しました。けれども先生は、子ども達と一緒でなければゲットーから1歩も出ないと厳しく拒否しました。やがて先生と子ども達はゲットーから収容所に移されることになりましたが、先生は最後の最後まで子どもの心と健康を守るために戦い続けたのです。

自分を貫く

これでもかというくらい虐げられる過酷な環境の中で、コルチャック先生は自分の信念をガンとして譲らずまっすぐに貫き通しました。
コルチャック先生は、小さな頃から物事を深く考える子どもでした。そして大人になるにつれ、様々な経験を積みながらさらに考えを深め、子ども達のための教育理論を確立し実践に移していった人でした。その信念は強固でゆるぎなく、ナチスからの迫害の中でもビクともしなかったのです。
強い信念を持ち、どんな環境に置かれても決して揺るがない自分の軸を持つということは、ヨガでも非常に大切だと言われています。
自分の軸をしっかりと持っている人は、どんな環境に置かれても決して周りにふり回されません。どんな時でも落ち着いていられるのです。
ところが自分の軸がしっかりしていないと、すぐに周りに振り回されてイライラしたり絶望したり悲しみから抜け出せなくなったりして、自分が壊れてしまいます。
ヨガの一番大きな目的は、イライラしたり絶望したりといった感情の波をコントロールして、心をいつも穏やかに、澄んだ鏡のようにしておくことにあります。ヨギーは、決して周りにふり回されないために、ヨガの修行を行い、瞑想をするのです。
子ども達に童話を読んで聞かせたりすることは、コルチャック先生にとっての瞑想だったのでしょう。
子ども達を守るという決してブレない強い軸は、ナチスの迫害という過酷な環境の中で先生自身をも支え続けたのです。

コルチャック先生は『いかに子どもを愛するか』*1という本の中でこう書いています。

子どもは一人の人間として尊重され、信頼されることを望み、指針と助言を求めている。われわれ大人は子どもを軽くあつかい、いつも疑いの目を向け、理解せずに突き離し、手を差し伸べることをしない。
両親は、子どもが知っていることを知ろうとはせず、見ていることを見ようとはしない。
わたしは子どもの権利を求める。さしあたり、三つの基本的権利を見つけ出した。

 死に対する子どもの権利
 今日の日に対する子どもの権利
 ありのままで存在する子どもの権利

『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』

“子どもは未来ではなく、ありのままの今を生きる人間であり、大人から対等の人間として敬意持って接してもらう権利がある” というコルチャック先生の養育理念は、1989年に制定された「子どもの権利条約」で反映されました。
この条約を提案したのはコルチャック先生の祖国であり、戦争で多くの子ども達の命を奪われた国、ポーランドでした。
コルチャック先生の提唱した子どもの権利や教育理念は今なお、私達大人が一人ひとり真剣に向き合うべき課題ではないでしょうか。現代の私達は、コルチャック先生のように子ども一人ひとりに対等に、そして真剣に向き合うことができているでしょうか。
コルチャック先生に関する本は、全ての大人に読んでいただきたいなと心から思います。みなさんぜひ、コルチャック先生のことを調べてみて下さい!

  1. 『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』(2021年)1刷発行 著:アンナ・チェルヴィンスカリデル 訳田村和子
  2. *1:『いかに子どもを愛するか』は、『窓の向こう ドクトル・コルチャックの生涯』より引用