宇宙と女性の横顔のダブルイメージ

真実を説明する『ウパニシャッド』教典の言葉「ネティ・ネティ(これでもあれでもない)」

ヨガ哲学では、本質や真実について学びます。自分の本質や世界の本質、宇宙の本質などの真実について説明しようとする時、言葉で表現するのはとても難しいことです。

瞑想中に感じた心地よさを説明しようとして「とても静かだった」と言っても、説明を受けた人はその静かさの何が特別だったのかを理解することは難しいですね。

古代インドの人たちは、あらゆる言葉を使って物事の本質を説明しようとしますが、言葉では的確に説明することができませんでした。そこで、生まれたのが『ウパニシャッド』教典で有名な言葉「ネティ・ネティ(非成・非成)」という概念です。

今回は少し難しいかもしれませんが、本質を探る古代インドの考え方を紹介します。

真実を説明する言葉「ネティ・ネティ」とは

宇宙と座る人のシルエットのダブルイメージ

ヨガ哲学では、自分の本質のことをアートマン(個我)と呼びます。アートマンとは、身体でも心でもなく、自分の内側に宿る霊魂のようなものです。一方でアートマンは、宇宙そのものでもあり、世界全体の本質(ブラフマン)でもあります。

古代インドの『ウパニシャッド』教典では、アートマンやブラフマンの真実が何なのかを様々な論法で説明しようとします。その中で有名な言葉が、「~ではない」と言う意味の「ネティ・ネティ(非成・非成)」です。

「これは真実なのか?」と自問していくと、言葉で表せるあらゆるものは真実とは呼べないと気がつきます。例えば、宇宙は巨大であると考えがちですが、ブラフマンは同時にとても小さい細部にも宿るため、一概に「大きい」という言葉では表現できません。

そのため、「これでも、あれでもない」といった議論になってしまいます。

そはこれ沙羅門(バラモン)のいわゆる不滅なるもの、荒ならず、細ならず、短ならず、長ならず、紅血なく、油脂なく、陰影なく、暗黒なく、風なく、空間なく、膠着なく、味なく、香なく、眼なく、耳なく、語なく、意なく、活動なく、気息なく、口穴なく、量度なく、内なく、外なし。そは何も食わず、そは何人も食うことなし。

『ブリハッドアーラニャカ・ウパニシャッド』3.8.8

本質であるアートマンには、言葉で説明できる特徴がありません。

例えば、長いか短いか、明るいか暗いか、幸福か不幸かといった二極のものは常に変化し続けます。あらゆる基準は、とても曖昧で変化し続けています。美味しくないと思っていたものでも、すごく空腹の時には美味しいと感じるかもしれません。瞑想を行なって強い光を感じる人もいれば、真っ暗な静けさを感じる人もいます。

ものごとの一時的な姿は本質とは言えないため、どんな言葉を用いても言い表すことができません。言葉では言い表せないことこそが、ヨガで見つけるべき本質なのです。

本質は汚されない永遠のもの

本質であるアートマンは、あらゆる苦しみから解放された存在です。

この我はただネティ・ネティ(非成・非成)と説き得るべきのみ。彼は不可捉なり、何となれば彼は捕捉せざればなり。彼は不可壊なり、何となれば彼は破壊せらればなり。彼は無染着なり、何となれば染着せらればなり。彼は束縛せられずして動揺せず、毀損されず。

『ブリハッドアーラニャカ・ウパニシャッド』3.9.26

本質は物質ではないので、壊されることがありません。

これは、物質世界の存在と比較すると分かりやすくなります。物質的な世界では、ネガティブなことを100%避けることは絶対にできません。なぜなら、物質世界がサットヴァ(純粋)・ラジャス(激質)・タマス(暗質)という3つの性質を最初から保持していて、その3つの組み合わせで出来上がっているからだと考えられます。今この瞬間に幸せを感じたとしても、それは永遠に続くものではありません。また、ある人にとっては嬉しいことであっても、他人にとっては苦しみになることもあります。どれだけ努力をしても、完全な幸福を得ることができないのが物質世界です。

それに対して本質であるアートマンは、姿形がないため、何人にも破壊されることがありません。また、何色にも染められることがなく、束縛されない完全に自由な状態です。

「ネティ・ネティ」の考え方で自分を見つめ直す

夕焼け空に向かって赤い風船を放つ女性の後ろ姿

アートマンやブラフマンといった言葉で説明しても、分かりにくいかもしれません。

しかしこの考え方は、自分自身を理解するためにも役に立ちます。

ヨガ哲学では、自分について知ろうとする時に、「私は○○である」という探し方を好みません。例えば、「私は日本人である」と定義することで、日本人としての常識にとらわれてしまうからです。他にも、「私は背が高い」「私は華奢である」「私はIQが高い」といったものは全て、他者との比較による概念です。日本国内で「自分は地黒だ」と思っていても、インドに来ると「肌が白い」と言われます。このような定義は全て、自分の本質を表すものではありません。ヨガでは、このような自分が思い込んだイメージを手放していきます。

自分以外のものを一つずつ手放すヨガ的思考

ヨガでは自分探しの話をする時に、よく玉ねぎを例にあげて説明します。自分自身で「これが私」と考えるものに対して、玉ねぎの皮を一枚ずつ剥くように「本当にこれは自分か?」と自問していきながら深めていきます。

自分探しをする時に定義しようとすると、間違った思い込みによって自分自身を定義してしまうので、そのような思い込みは全て手放していきます。例えば、「自分は人見知りな性格」だと自覚していると、初対面の人と出会うたびに「人見知りだから怖い」と緊張して、なおさら上手に話せなくなってしまいますね。このような性格もヨガでは一旦手放して、その都度真っさらな状態で世界と自分を見つめます。

一般的にヨガでは、目につきやすい外側のものから手放していきます。

①名前

日本では意識することが少ないですが、インドでは苗字によってカースト(職業階級)がわかることが多いです。しかし名前は自分の親によって与えられたものであり、私個人で作り出したものではありません。インドでは出家僧になる時にそれまで使ってきた名前を捨てて、新しい名前をグル(師)からもらう伝統があります。名前は家族との繋がりですが、ヨガは自分個人に向き合うものなので一旦手放します。

②社会的身分

例えば、警察官を見たらその制服で「この人は警察官」だと身構えますし、病院で医師や看護師を見ても、その人個人の性格ではなく職業で第一印象が変わりますね。自分自身に当てはめても、「私はヨガのインストラクター」「私は2児の母親」といったように、役割によって自分のイメージを決めてしまうことがあります。社会生活では必要なことですが、役割に合わせて行動してばかりだと、本当の自分の心の声を聞き逃してしまいますので一旦手放します。

ヨガの時間だけは、外の世界の役割から解放された自分と向き合う時間にしたいですね。

③身体

ヨガでは、身体も本当の自分ではないと考えます。インドでは、「魂が宿るお寺」と表現することがあります。身体は生まれた時から変化し続け、いずれ老いていきます。しかし大人になった時に、「私はこんな歳なのに、心は子供っぽいまま」だと感じる人も多いと思います。

物質的な身体はこの世界を生きるために必要で大切な器ですが、それ自体が本当の自分ではありません。自分の本質は、身体が老いたり不自由になっても全く変わらないものです。

④心

自分自身が誰かを考えるのも心です。誰もが自分が考えている思考で自分を判断するので、これが自分だと思ってしまいます。しかしヨガ哲学では、思考さえも本当の自分ではないと考えます。

瞑想を行なっている人は、煩悩を止めたいと思っていても、思考が勝手に雑念を生み出すことを実感すると思います。考えることは脳の役割であるため、私の意思に反して勝手に動き続けます。

また、心も私の思い通りになりません。感情のコントロールができなくて悩んでいる人も多いと思いますが、人の心は「これをしたら危険」と一度記憶すると、似た状況になった時に勝手に強い反応を生みます。すると、本来は危険がない状況であっても、不安を感じて苦しさを感じます。このような思い込みを生み出す思考と自分とを切り離すことで、色目がない真っさらな目で世界を見ることができます。

このように、分かりやすい外側から一つずつ手放すことで、少しずつ自分の本質の部分が見えてきます。自分自身を見失うことがなくなると、世界の見え方も変わってきます。

教典の教えを取り入れてみよう

街を遠くに眺めながら屋外で瞑想する女性

今回は『ウパニシャッド』教典の言葉を紹介しましたので、難しい文章もあったと思います。

しかし、小難しい教典を理解することが、哲学の本質ではありません。書かれていることを体感して、自分自身に落とし込むことが大切です。

ヨガを練習している人は、自分観察が得意になってくると思います。身体の状態、心の状態に気がついた時、これは本当の自分なのか、一時的なものなのかと自問してみましょう。

これは違うかもしれない「ネティ・ネティ」と考えるうちに、少しずつ本質が見えてくるかもしれません。

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