女性の横顔と地球のあらゆる物質のクロスイメージイラスト

世界の全てが美しい〜『ウパニシャッド』の教え〜

ヨガやスピリチュアルな学習を続けると、物質を超越した世界への関心が強くなり、現実世界を蔑ろにしてしまう事があります。その結果、スピリチュアルは現実を見ない危険な思想だと思われてしまうこともあるでしょう。しかし、古代インドの聖典では、物質的なものも含めて全てが大切なのだと教えます。

今回は、有名な『ウパニシャッド』の一説を紹介しながら、ヨガ的な世界観を勉強してみましょう。

現実世界を放棄することがヨガではない

ヨガの練習を続けていると、日常では味わえないような特別な体験をしたり、自分の内側のスピリチュアルな側面に触れる事があります。そんな魅力的な体験をすると、精神世界に没頭してしまいついつい現実から目を逸らしてしまいたくなる人が、現代だけでなく古代から存在します。

講和の中で、ある有名な聖者が宗教やヨガの問題点を話しました。

多くの宗教やヨガなどの教えは、現実世界の苦しみからの解放を目指します。その時に起こりがちなのが、現実世界から目を逸らす方法です。多くの宗教では、聖職者になるために独身である必要があります。他にも、食欲を制御して断食を行ったり、音楽などの娯楽を禁止する宗教もあります。また、古代のヨガでは、自分の家族や社会との繋がりを断ち切り、山に籠り修行をすることもよくありました。

このような物質世界のリアリティを放棄してまでこの世の苦しみを避けることが、本当に人の喜びなのでしょうか。

ヨガで参照される多くの経典でも、物質世界はマーヤ(幻影)であるという表現をします。これを言葉の通りに読むと、物質社会をネガティブなものに見ているように思われてしまいがちですが、実際はどうなのでしょうか。

現実世界も美しい真実だと説く『ウパニシャッド』

古代経典である『イーシャ・ウパニシャッド』の中には、現実世界も全て大切なのだと教えてくれる一節があります。

īśāvāsyamidaṃ sarvaṃ yatkiñca jagatyāṃ jagat | 
tena tyaktena bhuñjīthā mā gṛdhaḥ kasya sviddhanam || 1 ||

この世界で動く全てのものには主に覆われている(内在している)。それゆえ(自分に与えられたものを)楽しむべき。他者のものを貪ってはいけない。

『イーシャ・ウパニシャッド』マントラ1

『イーシャ・ウパニシャッド』はたった18のマントラで構成された短い聖典です。

ここで「主」と訳した「イーシャ」という言葉は、インドでは一般的に「神」と訳されますが、ウパニシャッド哲学の世界観では特定の人格を持った「神」ではなく、宇宙全体の根本原理であるブラフマン(梵)を意味しています。

この『イーシャ・ウパニシャッド』のマントラで重要なのは、最初の一文です。

この世界で動く全てのものには主に覆われている(内在している)。

物質世界で私たちが目にするもの全ては、主であるブラフマンと一体であり、全てがかけがえの無い存在であることを理解する必要があります。

この世で動くものというのは、私たち自身、周囲の人々、人間以外の動物、植物、石や水などの物質全てを含みます。物質世界に存在するあらゆるものは、全て変化し続け無常なものなので、その本質全てはブラフマンであり、ブラフマンそのものだと考えられています。

つまり、神聖なブラフマンそのものである物質的な世界を否定して、もっぱら霊魂的なものに没頭するのは、本質を否定してしまうことになってしまいます。

金のアクセサリーのたとえ話で説明するブラフマン

世界に満ちている全てのものはブラフマンだという梵我一如(ぼんがいちにょ)の考え方は、様々な方法で説明されていますが、今回は、金のアクセサリーの話を紹介します。

ある宝石商を営む男性は、金庫に貴重品全てを保管していました。ある時、父親は息子に向かって「金庫からゴールドを一つ持ってきてくれ」と頼みました。

息子は、父親に言われた通りに金庫を開けますが、中を一通り見たあと「ゴールドはありません」と答えます。父親はそんなはずがないと言いますが、息子は「金庫の中にはブレスレットとネックレスと指輪などがあります。しかし、ゴールドはありません」と、答えます。

父親は、呆れて言いました。「ブレスレットもネックレスも指輪も全てゴールドで作られているのだから、どれでもいいから一つ持ってきてくれ」。

しかし息子は、やはり「これはゴールドではない」と考えてしまいます。息子にとってゴールドとは、金の延べ棒やメダルであって、アクセサリーは同じ原材料であってもゴールドだと思うことができませんでした。

ゴールドとアクセサリーの関係と同じように、この世界に存在する全てのものは本質的にはブラフマンですし、この瞬間もブラフマンそのものです。しかし、この瞬間の形のみで物事を判断してしまうと、私たちは物質的な人の姿を見て「こんな不完全な人間は、ブラフマンではない」と思い込んでしまいます。

『バガヴァッド・ギーター』の説く物質世界で生きること

『ウパニシャッド』と同様に、ヴェーダンタ哲学に属する『バガヴァッド・ギーター』でも、主は世界のあらゆる場所に宿っていると説き、物質世界を生きる大切さを教えてくれます。

また私は、大地に入って、威力により万物を支持する。また液汁よりなるソーマとなって、全ての植物を育てる。

訳 上村勝彦. 2018. 『バガヴァッド・ギーター』15章13節. 第34 刷. 岩波書店. p, 120

ブラフマンは、大地の中にも宿ります。その大地から植物が芽吹き、その実や葉を食べて私たちは栄養素を得ますが、その全ての過程にブラフマンが宿っています。また、食べ物を消化する炎(アグニ)もブラフマンであり、食べ物によって得たエネルギーで活動をする私たち自身もブラフマンです。そんな世界の一部である私たちが、ブラフマンであるこの物質世界を軽視するのは、自然の摂理に反しています。

しかし(行為の)放擲は、(行為の)ヨーガなしでは達成され難い。

訳 上村勝彦. 2018. 『バガヴァッド・ギーター』5章5節. 第34 刷. 岩波書店. p,58

太陽が毎朝昇るのも、夜に月が輝くのも、梅雨に雨が降るのも、世界にあまねく全ての存在は与えられた役割を全うしています。人間だけが人間らしい生き方を放棄して、精神世界に没頭することは容易ではありません。『バガヴァッド・ギーター』では、それぞれの人も自分らしい人生を送りながら、その中で幸せに到達するべきだと考えます。

身体は、年齢とともに老いて美しさを失い、運動能力も徐々に失われるかもしれません。しかし、果物が半熟の甘酸っぱさから熟れて甘くとろけるように変化するように、全ての瞬間が美しく、その時々の味わいがあると気づきましょう。熟れた後に大地に落ちることは、決して悲しみではありません。また、新しい生命となって生まれ変わります。

ヨガで世界を楽しむ視野を手にいれる

今、私たちが目にしている世界の全てが愛おしいものだと気がつくことができれば、何も足さなくても、何も除かなくても、自分はすでに満たされているのだと気がつくことができます。

この気づきを探すのがヨガの練習です。

ヨガの練習では、何か新しいポーズを成し遂げることが目的ではありません。アーサナやプラーナーヤーマ、瞑想といった練習を通して、自分自身をじっくりと観察し、内側に宿る真実を探します。自分の内側に宿る美しさに気がつくことができれば、自分以外の存在の本質にも気がつきやすくなります。ヨガで知り合う人だけでなく、自分の周囲の人や苦手な人、自分と関係のない人、あらゆる動物や植物の中にもブラフマンは宿ります。

全てを平等に愛おしいと感じられるようになると、世界はとても優しさで満ちてくると思います。

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