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ヨガを練習していると、自分のことを客観的に見ているもう一人の自分の存在を感じることがあるかもしれません。もしかしたら、それがヨガで探している本当の自分の可能性があります。
自分の本質に近づくと、物質世界への執着が少しずつ弱まります。すると、そもそも何のために生まれて何のために生きているのかを見失うことがあるかもしれません。
今回は、ヨガの練習で見つける、自分の本質と物質的な自分の関係を『ヨガ・スートラ』の教えを元に見ていきましょう。
物質的な世界を作る3つの性質
『ヨガ・スートラ』では自分の本質のことをプルシャ(真我)と呼びます。それは、姿形のない霊魂のようなものです。プルシャは何も行動をすることがなく、物質世界で起きていることを映画を見るように眺めています。
私たちが見ている世界は全てプラクリティと呼ばれる物質原理が開展して生まれたもので、プラクリティを理解することが、世界で起きているあらゆる現象を理解することに繋がります。
まずは、『ヨガ・スートラ』に書かれたプラクリティ(物質根本原理)について見ていきましょう。
見られるものとは、照明、活動、鈍重の性向をあわせそなえ、物質元素と知覚、運動の器官とから成るものであって、真我の経験と解脱とをその目的としている。
佐保田鶴治, 1983, 『ヨーガ根本経典 ヨガ・スートラ』2章18節, 平河出版社, p. 95
『ヨガ・スートラ』では、プルシャのことを“見るもの”、プラクリティのことを“見られるもの”と表現します。また、プラクリティを構成する3つのグナ(要素)も違う名前で呼びます。
プラカーシャ:光、照明、輝き
クリヤー:動き、行為
スティティ:不動、鈍重な
“見るもの”(プラクリティ)を構成する3つの要素は、それぞれがサーンキャ哲学のサットヴァ・ラジャス・タマスに当てはまります。まずは、この3つの要素の特徴を見ていきましょう。
光り輝くプラカーシャ(サットヴァ)
プラカーシャは、トリグナのサットヴァを指しています。
純粋な性質であるサットヴァは、明るく輝きます。それは、本質であるプルシャを見ることができるからです。ヨガ哲学では、私たちの内側にある本質は常に美しく輝いていると信じます。しかしエゴや執着によって視界が濁ってしまうと、泥を塗った眼鏡をかけるように視界が遮られて真実が見えなかったり、光が遮られて暗くなったりしてしまいます。自分がかけているその眼鏡を、一寸の曇りもなくピカピカに磨くための作業がヨガです。ヨガで自分の体と心の中の汚れを削ぎ落としていくことで、明るい世界に出会うことができます。
そんなヨガ的アプローチが分かる一説があります。
プラカーシャという言葉は、『ヨガ・スートラ』ではプラーナーヤーマ(調気法)の説明でも使われています。
その結果、(心の)光明の覆いが消滅する。
佐保田鶴治, 1983, 『ヨーガ根本経典 ヨガ・スートラ』2章52節, 平河出版社, p. 113
プラーナーヤーマの練習を行うことによって、染みついた業(カルマ)が洗い流されていきます。その結果、自我意識による色眼鏡を取り除き、純粋な世界の姿を見ることができます。
ラジャス(激しさ)の性質が生み出すクリヤー(行為)
クリヤーは、行為という意味の言葉です。『ヨーガ・スートラ』では2章の冒頭にクリヤー・ヨガという言葉が出て来ますが、これはヨガを志す人が日常的に行うべき3つの行いです。
ヨガ的な行為であれば、視界を遮る曇りを取り除くことができますが、物質世界への執着や欲望による行為は、視界を遮る汚れをかえって撒き散らしてしまいます。例えば、怒りという激しい心の動きは冷静な判断ができなくなり、ネガティブな妄想を生み出します。そして、憎しみや怒りは、活動の原動力となります。
どっしりと重たいスティティはタマス(濁った)特性
スティティは、重たく動かない様子を表しています。例えば、ヨガのアーサナ(ポーズ)であれば、安定して動かない状態はとても良いアーサナです。しかし、3つの要素(グナ)に当てはめた場合には、重たく濁ったタマスの性質を意味しています。例えば、夢も見ないような深い睡眠はタマスの状態です。視界は完全に真っ暗です。熟睡している時に何らかの要因で目が覚めてしまうと、体が鉛のように重たく動きたくないですね。
タマスは泥水のような状態なので、一切の光を通しません。そのため、視界は真っ暗であり、光を感じない、つまりネガティブで暗い状態です。間違った妄想に支配されてしまっている状態もタマスの状態です。
3つの要素が作り出す世界の目的
私たちが目にするもの全てはプラクリティ(物質原理)から生まれていますが、この世界はプルシャ(真我)なしでは存在できません。
現代で言うと、AIと人の関係のようなものかもしれません。
日に日にAIは賢くなり、頭脳では人は敵わなくなっています。また、美しい映像を作ったり、音楽を生成したり、個性を持った声で会話ができたりと、AIができることも日に日に増えています。
しかし、どれだけAIの技術が進んでも、人がいないと無用の産物になってしまいます。それを使って楽しんだり便利だと感じたりする人間がいなければ、必要がなくなり消えてしまうでしょう。
同じように、物質世界もプルシャが見るために生まれました。
先に引用した『ヨガ・スートラ』で「真我の経験と解脱とをその目的としている」と書かれているように、自ら行動したり生み出したりする機能がない霊的なプルシャに、様々な経験をさせること、最終的には自分自身の存在の美しさに気付かせるために世界ができたのだと考えられています。
見られるものは、見るものの目的をもって、その本質とする。
佐保田鶴治, 1983, 『ヨーガ根本経典 ヨガ・スートラ』2章21節, 平河出版社, p. 95
プルシャはこの世界で様々な経験をし、必要であれば輪廻をして出生を重ねます。そして、最終的にはヨガによって自分の本質を探し、物質世界への執着を捨てて自分の本質に戻っていきます。それが解脱(モークシャ)です。
様々な経験をしている自分の人生を楽しむ
ヨガでは、本当の自分であるプルシャ(真我)を探し続けますが、そのヨガの道も含めて全てが大切な経験です。『ヨガ・スートラ』で説かれるプラクリティ(物質的な自分)の目的は、あらゆる経験をすることです。人間として生まれると、3つの要素(サットヴァ・ラジャス・タマス)によって構成されたあらゆる経験をします。
幸せな瞬間もあれば、感情が揺さぶられる悲しい瞬間も必ず起こります。病気になって動けなくなったり、誰かに執着をしたり、ネガティブな妄想に取り憑かれてしまうことは、誰でもあります。そのようなあらゆる経験を行うことが、私たちの生命の目的です。
物質世界の苦しい側面に絶望したら、物質への執着を捨てるヨガの練習に没頭したくなる人もいるでしょう。ヨガによって背負ってしまった業(カルマ)を一つずつ手放すプロセスも、大切な経験です。最後には、自分の内側にある穏やかな本質に気づくことができるかもしれません。
そんな自分自身に気がつき出会う経験も、プラクリティ(物質的な自分)が導いてくれます。
最終的に自分の内側がプラカーシャ(光)に満ちた時、それ以上新しい経験は必要ないと思う瞬間が起こります。それが解脱(モークシャ)です。解脱は捨てることではなく、十分に満足した時に現れます。急いで物質世界を切り離そうとしても、うまくいきません。
じっくり、自分自身が体験しているリアルな世界を味わいながら、自分の本質に近づいていきたいですね。