夕日をバックにした馬車と御者のシルエット

カタ・ウパニシャッドが説く、馬車に例えた自分のしくみ

「私って何?」

こんな疑問について、インドの教典『カタ・ウパニシャッド』が教えてくれる馬車のたとえ話があります。

この話は、自分と心の関係を理解し、どのように人生を進むのかを学ぶためにも役に立ちます。

今回はこの馬車のたとえ話についてご紹介いたします。

馬車で例える人間のしくみ

馬車と馬車に乗る人と御者
カタ・ウパニシャッドは、『バガヴァッド・ギーター』と同じヴェーダンタ哲学学派の教典の1つなので、ヨガ哲学を勉強している人にとってもなじみやすい教典です。

カタ・ウパニシャッドは、死神ヤマが、父親によって生贄として捧げられた少年ナチケータスに様々な真実を説く場面が描かれています。

少年ナチケータスはとても知性があり、財産や快楽などの欲を満たすよりも、純粋に知性を求めます。

そんなナチケータスの疑問に、死神ヤマは1つずつ答えていきます。

第1部3章では死神ヤマが人間の真実であるアートマン(個我の根本原理)について話しますが、そこで、肉体としての人間と、アートマンの関係が馬車に例えられて説かれます。

アートマン(個我)を馬車に乗るものと、身体を実に馬車と知れ。他方、理性を御者と、マナス(思考)をまさに手綱と知れ。(第1部3章3節)

諸感覚器官を馬と人は呼び,対象をその走路という。アートマン、感覚器官、マナスと結合したものを賢者たちは享受者とよぶ。(第1部3章4節)

この文章を表の様にまとめました。

馬車に乗る者 アートマン(真の自分)
馬車 人間の身体
御者 ブッティ(知性)
手綱 マナス(思考)
五感覚器官
走路 感覚の対象

それぞれについて説明していきます。

馬車に乗る者

インド哲学で「本当の自分」と呼んでいるアートマンは馬車に乗る人だと例えられます。

馬車に乗る人は主人公であるはずです。しかし、自分自身で馬車を動かすこともできないし、馬に指示を出すこともできません。

では馬車に乗る人が何をしているのか?

ただ馬車の中で座っています。何もしないけれど、馬車に乗る人がいなければ馬車は必要がなく存在意義がありません。

同じようにアートマンはどのような行為も行わずに存在しているだけです。しかし、自分の内側に存在して、物質的な身体の行動を見ています。

アートマンは誰の中にも存在しています。

馬車

馬車そのものは、人の身体に例えられます。それはアートマンを乗せるためのものです。

またインドでは、人の身体をお寺に例えることも多いです。

お寺や、お寺の中に在る神様の像そのものが神様ではないけれど、人々がお寺を清潔に保ち、神様の好物をお供えすることによって、その場所が神様にとって快適であって、神様は喜んでその場所にとどまります。

馬車もまた、きちんとメンテナンスされた状態であれば乗車は快適に感じます。

馬車をコントロールする御者

馬車は御者が手綱を引いてコントロールすることで馬を走らせて目的地に向かいます。

この御者に相当するのがブッディ(知性)です。

知性と思考の違いはとても分かりにくいものですが、知性とは、エゴ(自我意識)に束縛されない純粋な思考原理です。

人生においても、正しい道を知っているのが知性です。

例えばアヒンサー(非暴力)というのは人間であれば誰もが守るべき戒律です。しかし、自我意識が生まれて思考が活発になると、様々な例外を生み出して行うべきでないことをしてしまいます。「あの人は私を攻撃したから、反撃するのは正義だ。」と、思考で理由を作り出しては間違いを犯します。

だから、理性(ブッディ)が真実を見極めて、正しい道に進むことが人生では大切です。

馬を動かす手綱

私たちの思考であるマナスは、馬をコントロールするためのものです。本来自由奔放に動きたい馬たちを、手綱を使って統制します。

御者である知性(ブッディ)が手綱をコントロールできていれば、私たちは快適な人生を送ることができます。しかし、御者と馬の間に存在する手綱は、馬側からの影響も受けます。

馬は、五感覚器官です。感覚器官に思考が支配されると、楽な方、快楽を感じる方向に進みがちで、本来の目的地に到達することができません。

また、馬車を引く4頭の馬がそれぞれ違う方向に進みたがると、人生の路頭に迷ってしまうかもしれません。

だから、知性がしっかりと思考を制御することが大切です。

馬は5つの感覚器官

アートマンの乗っている馬車は4頭の馬で進みます。4頭の馬とは、視覚・聴覚・味覚・嗅覚です。(触覚は馬全体を覆う)

手綱である思考(マナス)が様々な方向に散漫してしまうのは、馬である感覚器官が様々な方向に進もうとしてしまうからです。

虎が現れたら逃げようとして、美味しそうなニンジンを見つけたらそちらに走っていき、怠けた馬がいれば急に止まり。

このように、感覚器官に支配されてしまった馬車は、目的地に向かって進むことができずに間違った道を進みます。

私たちは感覚器官にコントロールされるのではなくて、感覚器官の制御者になるべきです。

だから、知性を確立することが大切です。

走路は感覚の対象

馬車の通る走路は、五感覚器官の対象となるものです。

ある道には美味しそうな誘惑があります。ある道は楽なショートカットに見えます。ある道には財宝があるかもしれません。

しかし、そのような誘惑に負けると、本来の目的に到達することができません。

どこに向かうのかが大切です。

その正しい道の途中で時には楽しみがあり、苦しみがあるかもしれませんが、人生の向かう方向を見失わないことが大切です。

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馬車を制御するように自分自身を制御する

死神ヤマは、馬車を制御することが幸福に到達するための方法だと説きます。

理性がなく、つねに思考力(の手綱)を締めないものにとっては、諸感覚器官は制御されない。悍馬※1が御者に制御されないように。(3章5節)

コントロールされていない感覚器官は、思い思いに外的な対象物によって左右されて動き回り、予定外の方向に馬車を動かします。

人は、財産が儲かりそうな話があれば飛びつき、刺激性で味覚を翻弄するジャンクフードを好み、見栄えのいいブランドのバッグや車を欲しがり、他者からの名声を欲しがります。

これは、感覚器官に支配された人生です。このような生き方では、無常な物質世界に翻弄されて穏やかさを手に入れることができません。

理性を御者とし、思考力を手綱とするものは、行路の終極に到達する。それはヴィシュヌ神の最高の拠所である。(3章9節)

馬車の向かう道へ進路を調節するのが理性(ブッディ)です。思考(マナス)は、御者の制御によって馬を操るための部位であるべきです。

日常生活では、目の前に起きた事柄に翻弄されて、本質を見失ってしまう場面が沢山あります。

自分に不利益なことが起こると怒りの感情が高まり、理性を失った行動をしてしまうこともあるでしょう。そんな時こそ、冷静に俯瞰して自分を観察することが大切です。

  • ※1 悍馬:暴れっぽい馬。

馬の調教はゆっくりと楽しんで

馬とその馬を調教する人々
では、御者が馬を上手く制御するためにはどうしたらいいのでしょうか?

無理やり力で押し付けるのではなく、じっくりと時間をかけて信頼関係を作り上げることが大切です。とくに、すでに暴れ馬になってしまった感情は、無理やり押さえつけようとすると、かえって激しく反発し、とても危険です。

感情と思考を制御するためのトレーニングがヨガです。

少しずつ時間をかけて、自分自身の心との信頼関係を築きあげましょう。

本来の、自分が幸せだと感じられる人生を歩むことができます。

参考資料

  1. 服部正明訳「世界の名著・バラモン教典・ウパニシャッド」中央公論社1969年